第25回ホワイトヘッド・プロセス学会全国大会

シンポジウム資料

 1 アナロジーの方法と「本来的実存」  延原時行

2 プロセス哲学と「場所」の論理       荒川 善廣

 

アナロジーの方法と「本来的実存」 

比較宗教哲学のための「二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジー」

Analogy of Attribution Duorum Ad Tertium≫の創造的活用

の観点から試みる、「西田哲学との対話」*

*本稿は、日本ホワイトヘッド・プロセス学会第25回全国大会(2003926[]27[]、於上智大学)記念シンポジウム「場所とプロセス―西田哲学との対話」のための草稿である。

          延原 時行

           敬和学園大学

 

はじめに

 今回の記念シンポジウム「場所とプロセス―西田哲学との対話」の発題スピーチをさせていただくにあたり、二段構えの方法でこれに当りたい。第一段は、1981年に完成した私のPh.D.学位論文『神とアナロジ―:自然神学の新しい可能性の探究』God and Analogy: In Search of a New Possibility of Natural Theology (1981, Claremont Graduate University; Ann Arbor, Michigan & London, University Microfilm International, 1981)とそれの基本線を纏めた雑誌論文”Portraying ‘Authentic Existence’ By the Method of Analogy: Toward Creative Uses of the Analogy of Attribution Duorum Ad Tertium For Comparative Philosophy of Religion” (Bulletin of Keiwa College, No. 1, February 28, 1992, 61-83; No.2, February 28, 1993, 27-50; No. 3, February 28, 1994, 1-19)で打ち出して見た、比較宗教哲学のためのアナロジーの方法を、要約して日本語で解説、開陳することである。

 学問的には、自分にとって右の二つの仕事は甚だ重要なものであった。しかし、今までのところ、これらを学会で新たに論議に持ち出すことはなかった。プロセス思想の進展する世界的な学術ネットワークの中でも、仏教とキリスト教の対話の学術ネットワークの中でも、私はアナロジーに関してむしろ寡黙を通してきた。ところが、最近、インターネット上で、右の学位論文を少なくとも二つのカトリック学術団体が図書館で閲覧に供していることを知るに及んだ。Notre Dame Jacques Maritain CenterThe Society of St. Pius X (Poland)である。それぞれのホームページは、

http://www.nd.edu/Departments/Maritain/thomist.htm

http://www.piusx.org.pl/pp/index.php?nr=6

である。

 私は虚を突かれる思いがした。宗教間対話は、比較宗教哲学の事としては、トマス・アクイナスの提唱したアナロギア論議を一つの土俵としつつ、これをよく学問的に吟味して再整備して見ることが重要である、というのが、私の学問上の初心である。その上でプロテスタント告白主義、プロセス思想、西田哲学、及びトミズムを「本来的実存」の観点から対話論的、比較宗教哲学的に、相互に位置付けることを試みるべきではないか、と考えてきたのである。この初心の正当性を、未知のカトリックの友人達が認知してくれているではないか。だとすれば、自分としても色々な学術上の企画もあるのだが、学位論文の復権に力を注ぐべきではないか、と反省させられたのである。折しも、この七月、南山宗教文化研究所で東西宗教交流学会が開催された際、寺尾寿芳(和歌山信愛女子短期大学助教授)と長倉久子(南山大学教授)の両氏とトミズムに関して話を交わした。そこで、プロテスタントの方からのトミズム論に興味を示されたのが、本稿執筆の一つの具体的な動機になったわけである。本稿の第一段階の背景を、聊か述べさせていただいた。

 さて、第二の段階、「西田哲学との対話」である。ここでは、西田の最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」(『哲学論文集 第七』)についての私の最近の読みを、第一段階に繋げて見たい。これにも動機がある。拙著『地球時代の良寛』(新潟・考古堂、2001年)を出版してから、パウロの言葉「嗚呼、我悩める人なるかな。この死の体から我を救わんものは誰ぞ。我らの主イエス・キリストによりて神は感謝すべきかな。」(ローマ72425)に新たに打たれている。自らの死すべき体であることに徹底的に絶望することが、そのまま感謝に矛盾的に相即する消息は、良寛の晩年の歌「わがのちを たすけたまへと たのむ身は 元の誓ひの すがたなりけり」と霊性の気脈を通ずるものである。と、そう考えていた矢先、スイスから悲報を受けた。1960年代初めの同志社大学院時代からの恩師かつ親友のフリッツ・ドマムート先生(Dr. Fritz Dumermuth)が膵臓癌で77日に亡くなったと、次女のミドリさんからの訃報である。私も『二人称の死』(浅見洋)を深刻に体験することとなった。

 ここから、西田の最後の論文が新たに読めるようになって来た。彼の言う「死の自覚」(『第七』106頁)がこの論文の方法をなしていることが見えて来た。そこから「絶対者に対する」時、絶対否定に面するのであるが、ここで一転。絶対者自身が「絶対の無に対することによって、絶対の有である」(109)事情が、逆対応的に手繰り寄せられることとなる。とするならば、「逆対応」(inverse proportionality, correspondence)とは、第一段で明らめた「duorum ad tertium」のことではないのか、と思えて来たのである。 

前篇:アナロジーの方法――本来的実存

 

  序文

 本稿は、少なくとも三つのタイプの宗教哲学――すなわち、トミズム、プロテスタント告白主義、および日本の西田学派仏教哲学と比較されうるものとしての、ホワイトヘッド・プロセス思想――に現われる「本来的実存」(authentic existence)を描いて見ようという企図に立つ。採用される研究方法は、アナロジーのそれである。

 言うまでもなく、哲学的設問としての「本来的実存」(authentic [eigentlich] existence) の概念は、その著名な書物『存在と時』(1927年)におけるマルティン・ハイデッガーの思想に端を発する。これは、我々が本当のところ何者であるか、のその全体構造(Existentiale)に鑑み、それがいかようなものであれ我々のなす具体的行為の人間的投企の様態を明示する。そうした本来的様態としてハイデッガーは、自己が世界に既に置かれているということの発見(Befindlichkeit)、理解(Verstehen)、および語り(Rede)を挙げる。非本来的な在り方は、これに反して、現存在(Dasein)が、日常生活の必要事に関心を向けるのあまり、自己の可能性の全構造の持つ含蓄を無視する如き投企によって――すなわち、曖昧さ(Zweideutigkeit)、好奇心(Neugier)、お喋り(Gerede)のような投企によって――物事に関与する仕方、なのである。

 ここで、しかしながら、私の用いる「本来的実存」の概念が、必ずしもハイデッガーのそれと同一とは限らない、ということを予めお断りしておきたい。小論において私は、この概念は、ハイデッガーが『存在と時』において元々意味したものよりも広い意味において用いられうる、という前提に立っている。これは、一つは、彼自身が後に、その思想の「転回」(Kehre)を経ることにより、本来的実存が現存在の・究極的実在への・献身ないし即応(Entsprechung)――真理の明らめ(Wahrung der Wahrheit, the verifying of truth)――と同じ意味に用いられ始めたことによる。彼の実存論的・現象学的現存在分析のドラスティックな超脱と言えよう。私が考えているのは、我々はどのような実存様態であっても、もしも、それが(いかなる種類のものであれ)「実在の根本構造」に積極的に即応するものならば、あえてそれに「本来的」であると言及することができる、ということである。そして「積極的即応」という事が、例えばカール・バルトにおけるように、アナロギア概念の言わんとするところであるので、「本来的実存」の描写を、先に述べた宗教哲学の三類型に関するアナロジー問題の研究を通じて試みることとしたい。

 もう少し具体的に言えば、私は今日の比較宗教哲学の学的営為のために、トマス・アクイナスが存在の類比(Analogia Entis)の表題のもとに取り扱った四つのタイプの神学的アナロジーの内の一つである、二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジー(analogy of attribution duorum ad tertium)の二つの活用可能性を、闡明する仕事に従事することになるのである。そこで、先ず、アクイナスの存在の類比の全体系に占めるこのアナロジ―の位置を明らかにし、次に、これを創造的に活用する際の私の意図を明確にしておきたい。

 

  第一節:トマスのアナロジー論の批判的概観

 

 二者ノ第三者ヘノ帰属のアナロジーは、二存在者のあいだで、それらのいずれもが第三者に対して把持する関係の故に、妥当するアナロジ―である。例えば、「健康な」という形容詞がフォートワースとそこに居住するスミス氏の表情の両方に適用された場合、この形容詞の二重の適用は、その厳密な、第一義的適用においては、「健康な」という形容詞はフォートワースにも表情にも当て嵌まらず、スミス氏だけに当て嵌まる、という条件に立ってのみ、適切なものとして保障されることができるのである。故に、健康を、フォートワースは誘引し、スミス氏の表情は露わにし、そしてスミス氏は享受する(Fortworth induces, the complexion of Mr. Smith manifests, and Mr. Smith enjoys, health.)、という風に言うことができるのである。

 アクイナス自身が、このタイプのアナロジ―を神学において使用することに関して、絶えず警告していたことは、よく知られている。このことは、このタイプのアナロジーが、E. L. マスキャル(Mascall)によれば、我々が同一の述語を神と被造物に帰属させている場合には、殆んどないしは全然適用可能性がないからであると思われる。というのも、「この形容詞が、神に当て嵌まるよりももっと公式にかつ適切に当てはまることのできる、神よりも先行する存在者は、いないからである。」このタイプのアナロジーに対するトミズムの立場に立つ思想家のあいだでの全体的に否定的な態度は、したがって、彼らの基本的な神学的スタンス、超越論的神学、を表すものなのである。彼らにとって、宇宙において、神よりもよりリアルでより究極的なリアリティー(実在)は存在し得ない。したがって、神は、Ipsum Esse Subsistens(自存する存在そのもの)と呼ばれるべきなのである。つまり、このアナロジ―の彼らの否定は、適切な神学的観点からすると、宗教的究極者(すなわち、神)と形而上学的究極者(すなわち、存在)の彼らの側での同一視に由来する、その結果である。

 この観点からすると、何故二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーが除外されるべきであるかという理由は、何故一者ノ他者ヘノ帰属ノアナロジー(analogy of attribution unius ad alterum)が維持されるべきであるかという理由と一致するのである。この後者のタイプのアナロジーにおいては、述語は類比関係項の一方(ヨリ正確には、「第一」類比関係項)に公式にかつ本来的には属し、他方にはただ相対的に、そして派生的にだけ属する。神学的に言うと、このことは、神は被造物と被造物が持つ全てのものの原因であるということを意味するわけである。故に、「善い」という言葉は、例えば、神には本来的にかつ無限に当て嵌まるけれども、被造物にはただ派生的にかつ有限にだけ当て嵌まるのである。私見によれば、このタイプのアナロジーは、ヘンリー・N・ワイマン(Wieman)の提言した「創造された善きもの」(created goods)と「創造的善」(Creative Good)のあいだの区別の見地から最もよく理解されうるのである。このアナロジーにおいて重要なのは、世界に対する神の創造の関係(relation of creation)なのである。しかるが故に、被造物は「原因を含蓄する結果」(effects-implying-cause)と考えられるべきなのである。

 トミズムにおいて神の存在との同一視は中心的であるので、かつこの同一視は創造者の思想と結合されているので、トマス主義者にとって神は、ipsum esse per se subsistens(自存する存在そのもの)であると同様に、primum et maxime ens(第一にかつ最大に存在する者)なのである。この神観は、第三の、最も有名なタイプのアナロジー、本来的ナ比例性ノアナロジー(analogy of proper proportionality)にとっての基礎なのである。このタイプのアナロジーは、

     被造物の本質       神の本質

    ――――――――― :: ―――――――― に在るのである。

     被造物の存在行為     神の存在行為

 この比例性の類比的な構成にはたらいている三つの原理がある:(1)創造の関係;(2)事実存在の先行性;および(3)事実存在と本質の神内部における同一性、である。問題の比例性における絆を維持する上で、どの原理が要になっているかについては、トミスト達のあいだで聊か論争があるようである。例えば、R・ガリグー=ラグランジュ(Garrigue-Lagrange)にとっては、第三の原理が要である。というのも、公式の中の第三のタームがアナロジーにおいて、またそれを通じて我々に与えられているからである。他方、M.T.L. ペ二ド(Penido)にとっては、第二の原理が要である。というのも、第四のタームがアナロジ―以前に我々に与えられているからである。しかしながら、第一の原理の本質的重要性については、トミスト達のあいだに意見の相違はない。いずれにせよ、このタイプのアナロジーにおいてトミスト達は哲学的神学において最も重要な問いの一つに答えるべく努めているからなのである。すなわち、存在と神と存在者達は互いにどのように関係し合っているのであるか、という問いがこれである。

 第四のタイプのアナロジーは、隠喩的比例性のアナロジーである。例えば、ライオンは百獣の王と言われるが、これはライオンが、王が臣下に対してもつものと同様の関係を、野獣に対してもつからである。しかし、トミスト達はこのタイプのアナロジーを神学的に有意義なものとは看做さない。このことは、我々が「主は我が羊飼いである。」と言う時のように、我々が神に関して賓述する本性、つまり神の感応的、救済的な本性を説明することについての彼らの不備と主に関わっているのであろう。

 先にも述べたように、本稿の目的は、比較宗教哲学のために二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーを創造的に活用する可能性を闡明することによって「本来的実存」を描出することである。それというのも、私は、このタイプのアナロジーをトミスト達が峻拒する理由は、神学的に言って不当なものだ、と主張したいからである。神よりも先行するいかなる「存在」もない、と彼らは言う。もしも、彼らが「存在」(being)によって被造物を意味するならば、彼らは正しい。しかし、我々は、被造物よりも大いなるあるものとして、神よりも先行的(antecedent)であるものに言及することができるのではないか。例えば、存在そのもの(Being)乃至神的なもの(the Divine)がそれである。とはいえ、私は、このことにより、神を最高の一般化である存在の「概念」のもとに包摂するといういかなる意図も意味するものではない。というのも、もしも、そういうことになれば、一人の人間存在としての私が私の思惟の中でそのことにより神に対して支配権を得、神はその結果私の意のままになる一つの「概念」になろうからである。そうではないのである。私の意味するのは、むしろ、究極的宗教的「実在」としての神に対して、形而上学的に言って、先行的であるところの、形而上学的「実在」としての存在(Being)なのである。言い換えるならば、トミスト達のする神の存在(Being)との同一視も、神内部における存在(existence)と本質(essence)の同一視も、必ずしも正しくはないのではないか、ということなのである。

 私見によれば、人間的言語が、世界内的経験から引き出され、神的なものの領域に転移される事柄としての、アナロジ―の問題は、我々によって洞察されるままの神的なものの本性によって、存在論的に先立たれているのである。それ故、アナロジーは、実在の根本的構造を成すところの神的なものに即応するものとして、「本来的実存」と同じ意味であるとしてよい。私といえども、我々は認識論においては、「知られるものとしての存在」に関わり、論理学においては、「第二次的意図的(つまり、反省的=概念的)知識の中にあってかつそのために、知られるものとしての事物に普遍的に生じてくる存在様態」に関わるのである限り、認識的存在様態の枠内においては認識論的かつ論理学的優先順位がアナロジーにおいて幅を利かせる事実を認めるものである。しかし、これら二つの優先順位は、人間的言語を神的なものの領域へと転移するという問題になって来ると、存在論的先行性に道を譲るのである。何故ならば、認識論と論理学に特有の意味付けの様態(mode of signification)は、トマス・アクイナスも主張するように、意味される完全性(perfection signified)によって、すなわち、認識論と論理学が前提にしなくてはならない、事物としての事物に本来内在する存在ないし神的なものの完全性よって、取って代わられなくてはならないのである。かくして、アナロジーの問題における最終問題は、これである。すなわち、我々は、存在ないし神的なものに関して、究極的に言って、いかなるヴィジョンを有するのであるか。これは、存在論的問いであって、認識論的ないし論理学的問いではない。

 したがって、もしも、私の想定するように、一つの神学的観点が存在し、そこからは、神にも世界にも先行するところの第三のリアリティーがある、ということが主張されうるとするならば、先述のタイプのアナロジーは、強力な存在論的保証を獲得することになるのである。例えば、我々は、そのような三角形状の立場を、(ルターの「隠された神」(deus absconditus or the Hidden God)と「顕された神」(deus revelatus or the Revealed God) におけるように)神の二つの本性の区別の見地から、また(ホワイトヘッドの創造作用と神におけるように)形而上学的究極者と宗教的究極者の区別の見地から、考えることができるのではないか。いずれの場合も、世界がこの立場の経験的基礎をなすことは言うまでもない。

 三角形状の立場のこれら二つのケースは、「自存する存在そのもの」(ipsum esse subsistens)としての神と「第一にかつ最大に存在する者」(primum et maxime ens)としての神の、本質的に窮屈な混合に内在する、トミズムにおける本体的な神観(entitative view of God)に対して、批判的訂正を提供するのである。トミスト達は、しかしながら、神については、「存在する者」(ens)ないし本質と「存在」(esse)ないし事実存在のあいだの区別は妥当しない、神は「彼自身の存在・エッセ」(His own esse)である、と主張するであろう。しかし、この主張は、誠に皮肉なことに、彼らの当初の事実存在主義(existentialism)を導いて、惹起されない原因ないしカウサ・スイ(自己原因)としてのスタティックな神の命名に終らしめるばかりなのである。ハイデッガーがその論文「形而上学の存在=神・学的な本性」で批判的に想定したように、この神に対して、ひとは、祈ることも犠牲を捧げることもできず、畏敬のうちに拝跪することも歌いかつ踊ることもできない。「本体的な神」(entitative God)をルターが宗教的に超脱し、ホワイトヘッドが形而上学的に超脱したことが、それぞれ神と存在ないし創造作用を純粋に直覚するための新しい道を開拓した点で、重要なのは、この困難に鑑みての事柄なのである。ルターにとって、人間に応報的義に応じて生きるように命ずる「隠された神」は、イエス・キリストにおける啓示された神の経験にあって、かつそれを通じてのみ知解可能にされたのである。ホワイトヘッドにとって、原初的なものとしての神は、形而上学的究極者である創造作用の原初的例証としてのみ、知覚されるのである。神はいまや、存在ではなく、至高にかつ最大に倶現する者(the One who supremely and maximally concresces)である。しかし、我々にとって、こうした方向で、トミズムの比例性のアナロジーの存在論をある意味で保持することが依然、可能ではないかと考えられる。

 この三角形状の立場に留意しつつ、私は、第二節では、マルティン・ルターの「義認と祈り」の教説を研究することにより二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーの「キリスト論的」擁護を、そして第三節では、ホワイトヘッドの有機体の哲学を西田幾多郎の絶対無の場所の哲学と比較する中で検討することにより、これの「形而上学的」明確化を、論証してみたい。以下に証示されるように、ルターの十字架の神学(theologia crucis)の見地からの・このタイプのアナロジーの・再解釈は、カール・バルトのアナロジー教説(信仰の類比と関係の類比を含む)によって、またパネンベルクの頌栄論的アナロジーによって、補足される必要がある。そして我々のこのアナロジーのホワイトヘッド的活用は、ドロシー・エメット(Dorothy Emmet)、スーザン・ランガ―(Susanne Langer)、およびチャールズ・ハーツホーン(Charles Hartshorne)によるアナロジ―問題の考察のかけがえのない意義を説明するものである。第四節で闡明されるように、その結果のヴィジョンは、啓示神学(Revealed Theology)と自然神学(Natural Theology)の創造的綜合なのであって、少なくとも以下の四つの宗教哲学の流れを首尾一貫した方法で包含するのである。すなわち、トミズム、プロテスタント告白主義、ホワイトヘッド学派プロセス思想、および西田学派仏教哲学、の四者である。私見によれば、これらのいずれも、実在の根本構造のそれぞれに適切な闡明において、「類比的に本来的」(analogically authentic)なのである。

 

  第二節:二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーのキリスト論的再解釈

――ルター、バルト、およびパネンベルク(省略)

 

  第三節:二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーの形而上学的再解釈

――ホワイトヘッド学派プロセス思想と西田学派仏教哲学

. アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドと西田幾多郎:両者の「神と世界」観

 ホワイトヘッドの形而上学は、その主著『過程と実在』(1929年)の終章「神と世界」において頂点に達する。この章を理解するには二つの方法がある。一つは、これを、この著書の先行する諸章とこれ以前に書かれたホワイトヘッドの他の重要著書における彼の宇宙論の全展開の光に照らして、理解することである。もう一つは、この章の意味構造を、アナロジーの問題に関する西洋哲学的神学の全歴史の光に照らして、解明することである。これは何故かというと、この章は、私見によるならば、二つの性格を持つからなのである。すなわち、ホワイトヘッドの「有機体の哲学」の神学的帰結と神学的アナロジーの新解釈、という両面である。この小節(IIIA)では、私は、先ず、後者の性格を、西田幾多郎の絶対無の場所の哲学の最終段階における同様の展開とともに、いままでのところ第一節と第二節において達成したものの光に照らして、考察することとしたい。そして次に、 チャールズ・ハーツホーン、スーザン・ランガ―、およびドロシー・エメットそれぞれの、ホワイトヘッド哲学に立脚した、アナロジーの考察との比較において、前者の性格を省察してみたい。

 本節における我々の任務にとって、前節における二つの主要な成果を確認しておくことは、重要である。第一に、我々は、バルトの関係の類比は、遺憾なことに、神と人間のあいだの存在論的関係性の認識を彼が欠如していることの兆候でもあるのか、暗喩的アナロジーであるのであって、しかるが故に、存在と神と存在者とが互いにどのように関係し合っているのか、というトマス的問いの解決には不適合である、ということを確かめた。第二に、我々はまた、パネンベルクの頌栄論的アナロジーにおいては、イエスの歴史(これはイエスの権威への要請を含む)が、「意味付けの様態」(modus significandi)として捉えられるべきである――ただし、イエスの神による復活において、かつそれを通じて、イエスの歴史は終末(Eschaton)としての「意味される完全性」(perfectio significata)をアナロジカルに指示するのではあるのであるけれども、という留保をつけた上で――ということも、そこで認めた。その結果、我々はいまや、二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーの新しい形成を認めることができるのである。すなわち、神性、神(終末としての神)、および人間(これはナザレのイエスを含む)がその構成要素である。ただ問題は、我々は、この三角形状の実在構造をどのようにして、バルトの暗喩的アナロジーよりも適切な類比的見地から、捉えることができるのか、である。

 私が、ホワイトヘッドの『過程を実在』からの以下の二つの引用文を重んずるのは、この問いに答えてのことなのである。

  [A]神も、世界も、静的な完成に達することはない。両者とも、究極的形而上学的根拠である新しさ(novelty)への創造的進展の掌中にある。神と世界のいずれも、お互いにとって新しさの道具なのだ。(PR, 349

  [B]彼[注・神の原初的本性]は、諸存在者の根底における概念的感受の無制約的現実性である。その結果、この原初的現実性の故に、永遠的諸対象の創造の過程に対する適合性の中に秩序というものが存在することになる。彼の概念的作用の統一は、自由な、創造的な行為であって、諸存在者のどのような特定の推移との関連性によっても拘束されることがない。この統一は、事実束の間の存在へとやって来るものに関して、愛によっても、憎しみによっても、偏向させられるということがない。現実的世界の諸特定者それ[注・右の統一]を前提にしているのであるが、他方、それは単に、自らがそれの原初的な例証であるところの、創造的進展の一般的形而上学的性格だけを前提にしている。神の原初的本性は、創造作用による一箇の原初的性格の獲得なのである。(PR, 344

 私のアナロジーの観点からすると、前者の引用文、A、は、神と世界よりも先行的なものである創造作用のリアリティー(ないしは、新しさへの創造的進展)がある、という意味において、二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーを無類に説明するものである。創造作用は一般概念ではない。形而上学的究極者なのである。したがって、我々が右に掲げた引用文に見出すものは、一般的賓述ではなくして、創造性―言語の・究極的形而上学的リアリティーへの・アナロジカルな転移なのである。それ故、我々はこのアナロジーの形而上学的妥当性を、トミスト達のそれの否定に抗して、擁護することができるのである。

 さて、[掌中にある]in the grip of)という表現によってホワイトヘッドが、形而上学的究極者(彼の場合、それは創造作用なのであるが、私はこれを、バルトの教義学の体系内部では「内三位一体的神性」と同定することができるのだが、さらに、これを、トミズムの存在、エッセ(esse)、の根本的に非実体化された場合と見たい)と世界(それ自身の内部に人間とイエスを内包するものとしての世界)のあいだに、存在論的関係性(その内に一義性univocityの要素を含む関係性)が存在することを、主張している、ということを認識するのは、重要である。しかしながら、彼はこれが、創造作用と神とのあいだにも同様に存在する、と主張するのである。この点において、彼の実在像は、仏教哲学の京都学派の創始者、西田幾多郎の、神と世界が究極的に「於いて在る」ところの、絶対無の場所の思想に極めて酷似するのである。西田はこの場所をまた、「絶対矛盾的自己同一」とも呼ぶ――これは、この場所が、それ自身は神でも、世界でも、ないままに、神も、世界もそれ自身のうちに包摂するところの、究極的な統一的場所(unitary place)であることから、「対立者の一致」(unity of opposites)の意味において、なのである。般若直観(prajna-intuition)の大乗仏教的論理の「即非」としての解釈として、西田の[場所]は、この同じ論理の鈴木大拙による英語での表出――”A is not-A; and therefore A is A.”――に比較されうるのである。

 西田が、有名な最後の論文「場所的論理と宗教的世界観」(1945年の死の直前に脱稿。翌年刊行)において絶対無の場所の、ユニークなアナロジカルな解釈をくだしていることは、重要である。この論文において中心的であるのは、日本語で「逆対応」と呼ばれている事態であって、私はこれを一度、“mutual priority”と英訳した。D.A.ディルワース(Dilworth)は“a relationship of inverse polarity”としている。西田がこの概念で意味するものは、絶対無の場所に於ける、かつそれを通じての、神(ないし佛)と被造物のユニークな、逆説的関係性なのである。私は今ではこれを、“inverse proportionality or correspondence”と訳してはどうか、と思っている。これは、西田が[逆対応]の語を以下のコンテクストから感得していることを考慮するからである。すなわち、「故に私は佛あつて衆生あり、衆生あつて佛があると云ふ、創造者としての神あつて創造物としての世界あり、逆に創造物としての世界あつて神があると考へるのである。」(『哲学論文集 第七』110頁、121)という文脈が、西田の「逆対応」概念の思想源である。

 西田にとって、神は、ちょうど被造物が神に対するように、被造物に対する。それというのも、一にかかって、この“inverse proportionality/correspondence”ないしは、あえて言うならば、a proportionality/correspondence “back to back”の全体性が、それ自体、リアリティー(真実在)であるからなのである。それ故、我々は、西田にとってアナロジーは、我々による神の賓述の問題を超えるものだ、と言わなくてはならない。誠に、それは在る。そしてアナロジー(言うまでもなく、analogy of attribution duorum ad tertium)は、それ自身、自らをその両極、神と被造物、として自己限定するままの、媒介者=創造的世界としての、全ての現実存在者(actualities)の「場所」なのである(『哲学論文集 第七』88頁、94頁、115頁)。

 先述の論文において西田は、この「逆対応」(inverse analogy)の見地から、浄土仏教とキリスト教をも解釈しようと努める。私には彼がこの点十分成功しているとは思えない。というのも、ここでは、滝沢克己が批判的に想定するように、これら二つの宗教に本質的な「不可逆」の要素に彼が十分心して着目しているとは思えないからである。

滝沢は、西田が「絶対の神は自己自身の中に絶対の否定を含む神でなければならない、極悪にまで下り得る神でなければならない。」(『第七』116頁)というところに悪das Nichitigeへの譲歩を見て取っている(『畢竟』京都・法蔵館、1974年、121)。原理的に悪を峻拒する観点を彼は「不可逆」で打ち出したのだが、元々これは、体系はいかに西田の言う「一般者の自覚的体系」であったとしても、悪を体系内に組織的に含むことは出来ぬ、そう考えることは不適切である、という、バルトから学んだ滝沢神学の基本姿勢から来るものである。私自身は、悪の問題に関して、形而上学的には、形而上学的究極者(例えば、法性法身)は悪を含む全てのものに浸潤するが、宗教的には、宗教的究極者(神ないし阿弥陀)は、根源的善として悪を峻拒しつつも、ルターの言うように、十字架上で執り成し祈る受肉の愛の「創造的義」(義ならざるものを義とする義)ゆえ一転、赦す、と考える。これには、しかし、懺悔と信仰が呼応していなければならない。

 この点、西田とは対比的に、先に引用した後者の引用文におけるホワイトヘッドの実在像、B、は、浄土教とキリスト教を解釈するための哲学的論拠を提供する。というのも、この実在像は、世界の中での「志の創始」(initiation of aims)を扱う段になる時、創造作用、神、個物(複数)のあいだの関係性に関して、存在論的かつ価値論的な「前提」の「不可逆的順序」というものがある、という事実に内在するものだからである。極めて重要なことに、ホワイトヘッドの形而上学においては、この実在像は、私が先に、二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーの形而上学的擁護と同定した、第一の実在像と結合しているのである。

 このことは、したがって、大乗仏教の枠内には、二つの実在像が存在するという事実を、私に想起させるのである。一つは、右に既に言及した禅であり、もう一つは、浄土仏教であって、この中には、我々は、法身(Dharmakaya=空、報身(Sambhogakaya)=阿弥陀如来、応身(Nirmanakaya)=法蔵菩薩相互のあいだの関係性に関して不可逆的順序を見出すのである。浄土仏教の場合には、不可逆的順序は、一切の衆生を済度せんとする阿弥陀仏の本願の宇宙的はたらきと関係している。それは、神的佛による意思的な維持の秩序である。

 しかしながら、浄土仏教は、「方便法身(Upaya Dharmakaya)として、阿弥陀仏は法身そのものに至高に至誠であることから、ご自身への信頼を空への覚りへと翻訳可能(translatable)にする」ということを主張することにおいて、真に仏教であるのである。

このことは、ホワイトヘッドが以下の文言で述べる事と同等の内容を含んでいるのではないか:「神の原初的本性は、創造作用による一箇の原初的性格の獲得なのである。」(PR, 344

 かくの如しであるから、我々は今や、次のようなダイアグラム(図I)を描くことができるのではないか。このダイアグラムにおいて、形而上学的究極者(すなわち、ホワイトヘッドの創造作用[Creativity]であるが、これは、西田哲学における絶対無の場所と比較可能である――比較可能であるといって、その厳密な概念的同一性の点でそうなのではなく、それが、西田の「場所」の思想と形而上学的な究極性の意義を共有するからである)は、此処根底(@で示す)にあるのであって、本来西洋神学のアナロジー論議で用いられる、超越者()を天上(三角形の頂点)に仰ぎ、世界と人間が三角形の底辺の両極を占める、というダイアグラムを転倒するものである。すなわち、創造作用(Creativity)、神(God)、および世界(World)の関係性を示すダイアグラムが、創造作用を根底(@)にした上で、世界と神が、逆三角形の上辺の両極を占める形で成り立っているわけである。

 

      ―――――――――――――――――――――>

W(The World)     Service as Understood by God         G(God)

        ―――――――――――――――――――――――――――

          <―――――――――――――――――――――

                  Incarnation

Concrescence                                        Primordial Exemplification   

 

The World’s Loyalty                                      God’s Loyalty

                    @ 

                 C(Creativity)

I

説明:Concrescence(倶現)は、CWのヴェクトル、The World’s Loyalty(世界の至誠心)は、WCのヴェクトル、Primordial Exemplification(原初的例証)は、CGのヴェクトル、God’s Loyalty(神の至誠心)は、GCのヴェクトル、Service as Understood by Godは、WGのヴェクトル、Incarnationは、GWのヴェクトルをそれぞれ表す。(あと二本、線を補って、三角形を完成していただきたい。)

 

 このダイアグラムにおいては、二つの実在像、AB、が含まれているのであるが、両者は、ここまで説明してきた理由により、最終的に両立可能である。存在論的に言うと、つまり、実在像Aとしての存在のオーダー(ordo essendi)の見地からすると、

WC(The World’s Loyalty)WGService as Understood by God)+GC(God’ Loyalty)

  であるわけである。ここで私は、「至誠心」(loyalty)というタームを究極的存在論的な意味において、つまり、西田が「場所的論理」――それによって、我々は、現実存在者達がそこに「於いて在る」所の究極的形而上学的場所に言及することができる、あの論理――として名付けたものと釣り合った「形而上学的依存性」の意味において、用いているのである。

この至誠心は、私見によれば、それについての我々の意識的承認に常に存在論的に先行する。この存在論的至誠心についての我々の意識的承認は、右の公式と全く同一の形を取るのであるが、それでもそれは、その中で我々誰もが、否応なく、常住不断に事実存在しているところの「形而上学的依存性」に我々を目覚めさせることのできる力(power)ないし働き(agency)を必要とするのである。この力は、宇宙の価値論的―存在論的レヴェルにおいて、我々の実在像Bと同意義なのである。この実在像は、ある意味で、認識論的オーダー(ordo cognoscendi)と呼ばれるべきである。その核心(コア)にあるのは、我々の創造作用に対する(そして同時に、神に対する)意識的な、被造物らしい至誠心の・神による喚起である。換言すれば、神が我々をして、「形而上学的依存性」に覚醒させ給うこと、すなわち、神が、宇宙における我々の価値を、≪realization≫(実現=自覚)の意義において、現勢的に(actually)創造し給うこと、なのである。(潜勢的創造は、実在像Aの形において、常に進行している、としても、である。)

 この意味において、価値論的に言うならば、つまり、実在像Bとしての認識のオーダー(ordo cognoscendi)の見地からは、 

CW(Concrescence or the Buddhist Self-Realization) = CG(Primordial Exemplification) + GW(Incarnation)

となるわけである。ここにおいて、我々は、神がそれの導き手であるところの「創造作用の究極的形而上学的原理」の現勢的な例証の意味における「倶現」(concrescence)に関与しているのである。周知の如く、ホワイトヘッドの「倶現」の思想は、「多が一となり、一によって増大せしめられる」ということを意味する。しかし、この創造的綜合のホリゾンタル(水平的)なプロセスは、「それ自身の性格を欠如する」(without a character of its own)(PR, 31)ところの究極的形而上学的原理としての創造作用(Creativity)を具現し肉化するヴァ―ティカル(垂直的)なダイナミズムを前提にしている。したがって、「倶現」(concrescence)に含蓄されているものは、私見によれば、我々の実在像Aに込められている「形而上学的依存性」についての我々の意識的承認という意味において、我々が創造作用(および、同時に、神)に至誠になるようにという声なき激励なのである。言い換えるならば、我々の実在像Bは、それ自身の本来の場所を、我々の実在像A(以後、これをA[1]と呼ぶこととする)の究極的存在論的有意義性とそれの被造的態度的な有意義性(これをA2]と呼ぶこととする)のあいだに持つこととなるのである。

 我々のホワイトヘッド的実在像(A[1]、BA[])の三段階の明確化がこうして打ち出されてみると、西田学派哲学の側での少なくとも二人の思想家の中に、パラレルな思想様態が見出されうる、ということが、比較哲学的に判明するのである。滝沢克己と上田閑照である。

 第一に、滝沢はその生涯の最後の数年に、彼の「神人の接触」と呼ぶものが、第一義の接触(onticな接触、インマヌエルの原事実)と第二義の接触(noeticな接触)に分かれること、後者はさらに、第一の面(神の人間における、また人間としての、自己表現)と第二の面(人間の、自己自身における、神の表現)に分節すること、を結論するに至った。第一義の接触は、万人の実存の脚下に厳存する。そして第二義の接触は、我々一人一人の人間がそれに意識的かつ良心的に応える仕方(その完全な具現がイエスである)のことである。滝沢によるこの三重の実在像の中に我々は、極めて興味深い事実を見出す。すなわち、滝沢の第一義の接触(ないしインマヌエルの原事実)の思想は、ホワイトヘッド的実在像Aに相関するものであろう――ただし、滝沢が、「接触」(”contact between”)と言うことで、それ自身の内に神と存在者達を包摂するところの西田の絶対無の場所の思想のような、形而上学的究極者を、それ自体において意味することを許容するならば、の話である。しかしながら、滝沢自身はこの点については寡黙である。滝沢の主要な関心は、むしろ、第一義の接触(”unio substantialis”と名付けられる)は、第二義の接触(”unio functionalis”)に「不可逆的に先行する」ことを明らかにすることにあるのである。にもかかわらず、滝沢は、彼がヨハネ福音書冒頭のロゴスと同定するところのインマヌエルの原事実の思想は西田の絶対無の場所の立場と同一である、と確信をもって想定しているように思われるのである。私は、滝沢は、ここで彼の哲学的神学の形而上学的明確化を必要とすると考える。本稿で展開している私見は、この点を考えての試論である。

 もしも、滝沢が、上述の我々の補助的明確化を承認するならば、

à

WC(つまり、「接触」”Contact between”ないし、ヨリ正確には、”the Between”の領域に対する世界の直接の至誠心)は、WG(つまり、世界の神への不可逆的依存性)+ GC(つまり、神の形而上学的”Between”に対する至高の至誠心)にアナロジカルに相関するということ――すなわち、世界の”the Between”への直接の至誠心が、他方、神に媒介されながら成り立っているという逆説的事態――を、考えることが出来るはずなのである。

このことは、それが我々に、神人の第二義の接触について、禅の如き直接の覚り(CW表示する)と阿弥陀の本願による如き、究極の法身の媒介への、浄土真宗的信心(CG + GWと表示)の両立可能性の見地から、適切に考えることを得させる点において重要なのである。

 この補助的知識は、神人の第二義の接触の第二の面(すなわち、人間的―主体的に自己表現的な面)が、第一の面(すなわち、神的―主体的に自己表現的な面)に即応する場合を省察する際に、重要である。というのも、これは我々に、第二の面というのは、我々人間が、我々が事実上、否応なくその中で存在しているところの原本的な存在論的至誠心を、回復し、我々の実存的態度において再演する場合のその仕方である、という事実への洞察力を提供してくれるものだからである。勿論、我々の態度的至誠心は、神によって喚起される。しかし、それは、形而上学的な「間」(the Between)、西田の言う絶対無の場所、ないしホワイトヘッドの創造作用(Creativity)に向けて究極的に方向付けられている――もっとも、神人の第二義の接触の第一の面の枠内において我々に出会うところの神に在って、神を通じての事柄なのであるけれども。

 一言で言って、私がここで関与してい事柄は、三重の真理なのである。鈴木大拙の言い回し(『禅による生活』)を借りるならば、(1)我々は、存在論的には、否応なく「禅を生きている」(live Zen)のであるけれども、(2)態度的レヴェルにおいては、「禅によって生きる」(live by Zen)のである、(3)それというのも、我々は、かくあるべく神によって激励されるからである――その際同時に不断に、本研究のここまでの考察が示しているように、私が二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジ―と同定するところの我々のホワイトヘッド的実在観A1]の見地から、実在そのもの(Reality as such)を知的に把握する(grasp intellectuallyことを可能にされつつ、である。

 第二に、西田幾多郎の哲学的企図を三つの次元を含有するものとして、見事に再解明したのは、上田閑照である。処女作『善の研究』(1911)の序文に、西田の有名な一節が現われる。「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいといふのは、余が大分前から有つて居た考であつた。」そこで上田は、第一の次元である純粋経験は、根源語(Urwort)として言語を絶する経験(ineffable experience)であるのであるが、自発自展して第二の次元である根本句(Grundsatz)(すなわち、「原理の学」としての哲学に本質的な、根本的文章ないしシンボル)に至る。西田ではこれが、「純粋経験が唯一の実在である」という文言で出てくる。そしてこれはさらに、第三の次元である思弁的哲学的思惟(discursive philosophical thinking; ホワイトヘッドの言うspeculative philosophy)に至るのであるが、その目途は、「全体性の学問」の観点から「すべてを説明すること」なのである。(『上田閑照集 第二巻』東京・岩波書店、2002年、第一部:経験と自覚――西だ哲学における、参照。)

 本稿における我々の現在のパースペクティヴからすると、その哲学の現実の展開において西田が、純粋経験の立場の(「原理の学問」と「全体性の学問」への)三段階の自発自展を、「純粋経験の立場は『自覚に於ける直観と反省』に至つて、フィヒテの事行の立場を介して絶対意思の立場に進み、更に『働くものから見るものへ』の後半に於て、ギリシャ哲学を介し、一転して「場所」の考に至つた。」(『善の研究』「版を新にするに当つて」)と、彼自身言うように、ラディカルに再考したことに注目することは、重要である。この事実に鑑み、上田は、西田の哲学的発展を「純粋経験と自覚と場所」という三段階を含むものとして捉えることを、提言するのである。

 上田の観察に含まれている重大事は、私見によれば、この問題なのである:すなわち、純粋経験の根本句とすべてを説明する思弁的哲学的思惟という後続する二つの段階への自発自展は、純粋経験からのすべてのものの一元的流出の見地から、単に直線的な形で生起することは出来ない、ということである。それでは、西田の哲学的発展におけるラディカルな変化を齎した基本的モーメント(複数)は何であろうか。

 我々が、「神による我々の被造的至誠心の意思的な招喚」と「我々の現勢的、態度的至誠心における、またそれを通じての、純粋経験の場所論的構造の取り戻し」の二問題が、二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーとして同定されうる根本的実在像A[]の基礎の上に、ホワイトヘッド的実在像BA[]を用いて解明されるべきである、と信ずるのは、正にこの問いに応えてのことなのである。

 宇宙には、純粋経験ばかりではなく、純粋経験に即応し、純粋経験に至誠であれと「我々被造物ないし衆生」を激励する「招喚的力」(evocative power)が存在するように思われる。もしも、そうならば、実在の根本構造は、この招喚する力と被造物とをともに含み、それ自身の内に包摂するものと判明する。それ故、究極的実在は、二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーというトマス的アナロジーに関する我々の再解釈と符合するところの、場所論的本性のものである。

 究極的実在の場所論的本性(我々の実在像A[1])は、しかしながら、神的招喚(我々の実在像B)と我々の態度的至誠心(我々の実在像A[])の二つのプロセスを通じてのみ我々の認識(cognizance)の中で前景に出て来るのである。しかも、それは、創造作用の究極的実在に最初から本質的に含まれているのであって、この実在に、神も被造物も同等の存在論的基礎の上に立って――神の場合は、欣然として、そして被造物の場合は、否応なく――ともに至誠なのである。神は、創造作用(これは、「それ自身の性格を欠如する」without a character of its ownPR, 31]もので、それ故、この点、仏教的空に等しい)に欣然として心から至誠であるので、我々の被造的心と知性における意識的至誠心を招喚することのできる、宇宙における唯一の存在者なのである。この意味において、私は、神を宇宙における至誠心の原理と呼びたいと思うのである。神は創造作用に至誠である、と私が言う時、私は、神が何者か(Something)に至誠である、ということを意味するものではない。それでは、「モーセの十戒」の第一戒(出エジプト記20章3節)に悖ることになる。創造作用は、既述のように、空なのである。そういうものとして、創造作用は、それが自らを空じ、否定し、創造的進展(creative advance)として世界の中でプラグマティカルに有効になる限りにおいて、創造的なのである。しかしながら他面、それは、神のように、宇宙における招喚力として、至誠心の原理であるためには、経験的基礎を欠いている。

 先述した我々のホワイトヘッド的論議に取って返せば、西田哲学についての我々の吟味の後に、ここで、考慮されるべき二つの特別に重要な問題がある。一つは、我々の実在像Bにおいて、どのようにして創造作用は、世界に直接に関係しているのか、という問題である。これは、創造作用、神(その原初的本性)、および世界の関係性に関する不可逆的な存在論的かつ価値論的な秩序(順序)に、アナロジカルに相関している問題なのである。(図IにおけるCW[倶現Concescenceないし仏教的自覚]を参照。)もう一つの問題は、我々の実在像Aに含まれているものは、世界の神への関係性への言及(reference)である、ということであって、このことは、かく説明されたものとしての二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーの像を完成するものなのである。(この点、図IWC[神に理解されるままの奉仕]を参照。)

 私のアナロジーの観点からすると、これら二点は、それぞれの実在像との関係において特別に強調されるべきなのである。第一に、CWへの必要から、我々はホワイトヘッドが[存在論的原理](ontological principle)と呼ぶものを考察するように促されうのである。この原理は、「現実存在なきところに、理由なし」(no actuality, then no reason.(PR, 19)と要約されることが出来る。ホワイトヘッドにとって、「現実のもの達(actual entities)――現実の機縁達(actual occasions)とも言う――が、それから世界が作り上げられているとことの終局のリアルなもの達(final real things)なのである。現実のもの達の背後に行って、それがどんなものであれ、もっとリアルなものを見出すことは叶わない」(PR, 18)。さて、現実のものは、ひとえに究極の事実を性格付けている、創造作用の究極的形而上学的原理のおかげで、現実のものなのである。それ故、既述のように、「多が一となり、一によって増大せしめられる」(PR, 21)。これはとりもなおさず、現実のもの達が、「現実のものになる」(becoming actual(これはヴァ―ティカルに)と「ともに成長する」(growing together(これはホリゾンタルに)という二重の意味において「倶現する」(concresce)ということである。(注・倶とは「ともに」ということ、現とは「現成」の現である。)

 ホワイトヘッドの形而上学の正しい理解のためには、我々が、存在論的原理と創造作用の究極的原理――それによって「非結合的に(disjunctively)宇宙が存在している場合の多が、結合的に(conjunctively)に存在している場合の一なる現実機縁になる」(PR, 21)ところの原理――のあいだに何物も差し挟まないことが、重大である。何故ならば、ホワイトヘッドが強調するように、「事実の確定性(definiteness)はその形相によるが、個物的事実は被造物であり、創造作用が――形相によっては説明不可能なまま――全ての形相の背後にある究極者でありつつ、なお、その被造物達によって条件付けられている」(PR, 20; イタリック体は筆者による)からである。このことは、西田の絶対無の場所の思想を意義深く想起させてくれる事態である。というのも、絶対無の場所は、それ自身と現実存在者達のあいだにいかなる種類の媒体のはたらきをも介在させることなく、現実存在者達を包摂し、基礎づけるからである。    ―→

 第二に、実在像Aに話を戻したい。WGに対する必要の故に、我々は、ホワイトヘッドが神の帰結的本性と呼ぶもの――これは、実は、「神におけるその客観的不死性によって‘永久的’(everlasting)になる行雲流水的世界(fluent world)」(PR, 347)に他ならない――を説明するように求められている。神のこの本性は、それ自身においてWGである、ということは、注目すべきである。ホワイトヘッドの言葉によれば、「神の帰結的本性は、現実性の多様な自由を神自身の現実化の調和の中へと受け取ることによって、自らの経験を完成することである。それは、リアルに現実的なもの、自らの単に概念的な現実性の、欠如態を完成するもの、である」(PR, 349)。この本性は、世界過程でありつつ、同時に神なのである。

 その結果、神への我々の現実の(知らず知らずのうちの)奉仕(礼拝)service)は、「彼女」(Her)への物的、存在論的貢献として、同時に、神の我々の受容また理解なのである。我々は一を他から引き離すことが出来ない。それ故、ホワイトヘッドは、無類の説明を試みるのである:

   この世界において成し遂げられた事柄は天上のリアリティーの中へと変革されて入っていき、そうして天上のリアリティーはこの世界の中へと立ち戻ってく来る。この交互的(往復運動的)関係の故に、この世界の中の愛は天上の愛の中へと移り入り、そしてふたたびこの世界の中へとどっと飛沫をあげて逆流して来る。この意味において、神は、大いなる伴侶――理解してくれる共苦者――なのだ。(PR, 351

 これは、我々の意識的信仰が発現する前に存在論的レヴェルで機能するものとしての信仰の類比(Analogia Fidei)としての、一者ノ他者ヘノ帰属ノアナロジー(analogy of attribution unius ad alterum)、しかもそれが、我々のホワイトヘッド的実在像A[1]の形における二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジー(analogy of attribution duorum ad tertium)と結合された場合、の解釈として適切なものであると読むことが出来よう。しかも、それは、それが神の被造物に対する因果的影響と同様、被造物の神への因果的貢献を認識する点において、トミズムの一者ノ他者ヘノ帰属ノアナロジーとは異なるのである。我々がこの全プロセスを意識的に玩味するようになる時、我々は信仰に入っているのである。そしてこれが、私が、ホワイトヘッド的実在像A[]によって意味することを意図する事柄なのである。                     

 先に示したダイアグラムにおいて、私は、至誠心―言語をWCGCの叙述に適用した(I、参照)。両者は、それぞれに創造作用に差し向けられた、世界の至誠心と神の至誠心を意味するのである。「至誠心」によって私は、神と世界のいずれも、「お互いにとっての新しさ(つまり、創造作用)の道具」(PR, 349; イタリックは引用者による)であることを、言い表したいのである。       

 結論として、ここまでに描出された、三つの実在像A[]BA[]に立脚して、我々は、二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーを、創造性―言語の見地から、以下のように創造的に再解釈することが出来るのではないか、と思われる。すなわち、創造作用を、世界は現実的に誘引ないし受容し、神は原初的かつ帰結的に顕し、そして神性(神を超える神)は享受する(the World actually induces and accepts, God both primordially and consequently manifests, and Godhead [as God beyond God] enjoys, creativity.)、という風に、である。この定式に明らかなように、我々はホワイトヘッドと共に、アナロジーの問題において二つの作業原理を是認する:すなわち、両極有神論(bipolar theism)と形而上学的究極者としての創造作用の宗教的究極者としての神からの区別である。これら二つの原理のゆえに、我々のアナロジーへのスタンスは、トミズムのアナロジ―教説において採用されているそれ(第一節、参照)とは、ラディカルに相違する。我々は、トマス主義者達による神における事実存在と本質の同一視をうけいれず、存在(Being, esse)と神の同一視、つまり、自存する存在そのもの(Ipsum Esse Subsistens)の思想を、諾(うべな)わない。しかしながら、我々は、トマス主義者達と共に、創造の関係(relation of creation)の原理を承認する――ただし、これが、神の原初的本性によって世界において志が創始されること(initiation of aims)に言及する、という条件のものにおいて、である。この原初的本性に我々人間は、他面同時に、神の帰結的本性によって理解されつつ、信仰にあって応えるのである。

 

. チャールズ・ハーツホーン:心―身アナロジー

(省略)

  第四節:結語

  (省略)

付言:結語において確認した諸点:

(1)二者ノ再三者ヘノ帰属ノアナロジーのキリスト論的再解釈を促すルター神学の場合、信仰者と啓示された神(deus revelatus)が隠された神(desus absconditus)にアナロジカルに言及するので、正義を、信仰者は実存的―告白的に誘引ないし受容し、啓示された神は顕し、隠された神は享受する(the believer existentially-confessionally induces (or, rather, receives), the Revealed God manifests, and the Hidden God enjoys, justice.)という風に、定式化することが出来る。この場合、本来的実存は「(信仰によってのみ)義人である(righteous)」こととなる。思うに、これなしに聖書的信仰は理解できないであろう。

 (2)第三節に展開したように、ホワイトヘッド哲学からは、本来的実存は「自己創造的である(self-creative)」こととなる。思うに、これなしに宇宙論は成立しないことであろう。

 (3)西田哲学においては、本来的実存は「一毫の私なき所、私は之を誠、至誠と考える」(『哲学論文集 第七』157頁)、すなわち、無心に至誠(self-lessly loyal)ということとなる。思うに、これなしに仏教を実存的=哲学的に理解することは出来ないであろう。

 (4)トマスの存在の類比の核心をなす本来的比例性のアナロジーは、以上の三つのケースの再検討の後承認される。そこからの本来的実存は、「比例的に公正である」(proportionately just)こととなる。思うに、これなしに法哲学と国際法は基礎を失うであろう。

 これら四つの場合の「本来的なあり方」(authentic existence)は、それぞれにユニークなので、互いの優劣でなく、互いの比較宗教哲学的対話をこそ推進すべきなのである。そのために、神学的アナロジーの研究、ことに二者ノ第三者ヘノアナロジーの研究は中枢的に重要である。

 

後編:西田哲学との対話――逆対応のダイナミックス

 ここでは、「はじめに」と前編の論述を受けつつ、一点にだけ絞って、「場所的論理と宗教的世界観」についての私の最近の読みを明らかにして見たい。私の最近の西田哲学の読みは、こうである。少なくとも今問題にしている最後の論文に関する限り、「はじめに」でも述べたように、西田にとっては、「死の自覚」が哲学の方法をなしている。この方法によって発見したものが、「逆対応のダイナミックス」なのである。

1. 場所論的―存在論的次元

西田の宗教論は、「一」において神が我々の自己に「心霊上の事実」として現われること

を提唱することから始める(8485頁)。この提唱は論証されなくてはならない。先ず、「二」において、宗教の問題が価値の問題ではなく、自己根底における自己の矛盾的存在たることを自覚した時に撞着する事実、すなわち存在論的事実であることを、死の自覚を方法にして解明して行く(106頁)。私が顕著な言葉だと思うのは、そこで、「対する」という表現である。

自己の永遠の死を自覚すると云ふのは、我々の自己が絶対無限なるもの、即ち絶対者に対する時であろう。絶対否定に面することによつて、我々は自己の永遠の死をしるのである。併し単にそれだけなら、私は未だそれが絶対矛盾の事実とは云はない。然るに、斯く自己の永遠の死を知ることが、自己存在の根本理由であるのである。何となれば、自己の永遠の死を知るもののみが、真に自己の個たることを知るものなるが故である。(107頁;傍点引用者)

この「対する」は、したがって、自己根底の存在論的事実である。預言者イザヤの見神のテキストに出てくる「我亡びなん」の一語に西田が注目するのも、この故である。私はこれを「存在論的至誠心」とか「形而上学的依存性」とか前篇で呼んだのであるが、重要なのは、これが神によって共有されていることである。ここに、西田の宗教論の深みがあるのであり、それ故にこそ、「逆対応」の事実が指摘されうるわけである。「我々の自己は、唯、死によつてのみ、逆対応的に神に接するのである、神に繋がると云ふことができるのである。」(108)という文言は、そこで、次の神の自己否定の文言との間の結節点なのである。

 如何なる意味に於て、絶対が真の絶対であるのであるか。絶対は、無に対することによつて、真の絶対であるのである。絶対の無に対することによつて絶対の有であるのである。而して自己の外に対象的に自己に対して立つ何物もなく、絶対無に対すると云ふことは、自己が自己矛盾的に自己自身に対すると云ふことであり、それは矛盾的自己同一と云ふことでなければならない。(109頁;傍点引用者)

 ここから、「佛あつて衆生あり、衆生あつて佛がある。」「創造者としての神あつて創造物としての世界あり、逆に創造物としての世界あつて神があると考へるのである。」という「即」の論理が出てくるのであるが、この論理は、死の自覚を方法にして見えてきた存在論的世界のすがたかたちに他ならない。私には、前篇で述べた実在像A[1]のことわりとしての二者ノ第三者ヘノ帰属ノアナロジーの事態である。この場所に於いて万物(神も世界も)はある。

 

2.価値論的―存在論的次元

 さて、逆転が起こる。それは「翻へす」という一語で物語られる。

  絶対は何処までも自己否定に於て自己を有つ。何処までも相対的に、自己自身を翻へす所に、真の絶対があるのである。真の全体的一は真の個別的多に於て自己自身を有つのである。神は何処までも自己否定的に此の世界に於てあるのである。此の意味に於て、神は何処までも内在的である。故に神は、此の世界に於て、何処にもないと共に何処にもあらざる所なしと云ふことができる。(110頁;傍点引用者)    

ここは、第二作『自覚における直観と反省』四十章の「絶対的自由の意思が翻つて己自身を見た時、そこに無限なる世界の創造的発展がある。」(全集II287)を想起させる。ホワイトヘッドの有名な最晩年の一句“God is in the world.” (Lucien Price, Dialogues of Alfred North Whitehead, Max Reinhardt: London, 1954, p. 366)と好一対である。この場合の西田の「神」は、ホワイトヘッドの場合におけるようにPersonal Deityたり得るであろうか。「内在」の事由は、西田の場合、次のように説明される(「二」の重要箇所)。

  仏教では、金剛経にかかる背理を即非の論理を以て表現して居る(鈴木大拙)。所言一切法者即非一切法是故名一切法と云ふ、佛佛にあらず故に佛である、衆生衆生にあらず故に衆生であるのである。私は此にも大燈国師の億劫相別、而須臾不離、尽日相対、而刹那不対といふ語を思ひ起こすのである。単に超越的に自己満足的なる神は真の神ではなからう。一面に又何処までもケノシス的でもなければならない。何処までも超越的なると共に何処までも内在的、何処までも内在的なると共に何処までも超越的なる神こそ、真に弁証法的なる神であらう。真の絶対と云ふことができる。(『第七』110111頁)

 このような神の思索を西田は、万有神教的ではなく、万有在神論的Pantheismusと言う。

  我々のWGと見合う考である。西田は、「絶対矛盾的自己同一的世界」が、自己否定的に,何処までも自己に於て自己を表現すると共に、否定の否定として自己肯定的に、何処までも自己に於て自己自身を形成する場合を、創造的と呼ぶのだが、これは、ホワイトヘッドの「倶現」(concrescence)に見合う。それを彼はさらに、「絶対の場所的有」(115頁)と名付ける。我々のC→Wのヴェクトルに合致する。他面、宗教的には、この次元の問題――我々の実在像B――を西田は、「我々の宗教心と云ふのは、我々の自己から起るのではなくして、神又佛の呼声である。神又は佛の働きである、自己成立の根源からである。」(121122頁)と叙述する。我々のC→G→Wのヴェクトルに合致する。両方のヴェクトルを同時に含むのが、実在像Bの全体性なのである。ここで問題となっているのは、究極者による我々被造物における至誠心の招喚である。

 

 3.宗教的実存の次元

 西田は、先ず、死の自覚の方法を用いて、場所論的―存在論的次元に、人にとっても神にとっても死ないし自己否定(絶対の無に「対する」こと)のみが真の自覚に通じている事理(「自己存在の根本的理由」)と突き止め、これを絶対矛盾的自己同一の世界と認識した。この世界の構造はあくまでも「逆対応」のダイナミックスで成り立っている。「三」で西田はこの問題を再説して言う、「我々の自己と神即ち絶対者との関係は、屡々云ふごとく大燈国師の語が最も能く言ひ表して居るのである。何処までも逆対応的である、絶対に逆対応的であるのである。そこに生死即涅槃と云い得るのである。我々の永遠の生命とは、此に考へられねばならない。我々の自己が生命を脱して不生不滅の世界に入ると云ふのではない。最初から不生不滅であるのである。即今即永遠であるのである。」(133頁)と。次に、西田は、価値的―存在論的次元において、絶対矛盾的自己同一の世界、自己存在の根源(「自己」は同時に神と人の自己)から「神又佛の呼声」とこの世界の「自己表現=自己形成」(ホワイトヘッドの「倶現」(concrescence)と合致する創造過程)が出て来ることを考察した。逆対応の場所論的―存在論的世界が今や、≪self-realization≫(自己実現=覚り)を喚起する価値論的−存在論的世界へと出て来る問題である。

 これら二つの次元を受けて初めて、第三に、宗教的実存の次元となるのである。そこで、西田は書く、「我々は自己の永遠の死を知る。そこに自己がある。併しその時、我々は既に永遠の生に於てあるのである。矛盾的自己同一的に、斯く自己が自己の根源に徹すことが、宗教的入信である、廻心である。而してそれは対象論理的に考へられた対象的自己の立場からは不可能であつて、絶対者そのものの自己限定として神の力と云はざるを得ない。信仰は恩寵である。我々の自己の根源に、かかる神の呼声があるのである。私は我々の自己の奥底に、何処までも自己を超えて、而も自己がそこからと考へられるものがあると云ふ所以である。そこから生即不生、生死即永遠である。」(133134頁;傍点引用者)と。

「物となつて見、物となつて聞く。」(136頁)という有名な一句が出てくるのは、この関連においてなのである。ルターのローマ書講義の中の「信仰とは、我々を更へて神から生まれさせることである」との言葉や禅宗の「見性成仏」を此処から、西田は「自己の転換」を語るものと述べるのである。そして遂に、「純なる場所的自己限定として、一毫の私なき所、私は之を誠と考へる。而して至誠は大悲大慈に基礎付けられていなければならない。」(157)という宗教的実存の最終定義が出てくるのである。これは正確に我々の実在像A[]に符合するものだ、と言わなくてはならない。ここに、前篇における「アナロジーの方法と本来的実存」と後篇における[西田哲学との対話]は、比較宗教哲学上、豊かに切り結ぶと言えようか。その最終判断は、読者にお任せしたい。(了)2003829日脱稿



プロセス哲学と「場所」の論理

荒川 善廣(天理大学)

 

 1 究極的原理としての場所

 

 有機体の哲学では、形而上学的なカテゴリーは、自明的なものの独断的陳述ではなく、究極的な一般性の試論的な公式化でなければならない、と考える。ホワイトヘッドによると、哲学がその固有の地位を回復するためには、進歩の各段階で明確に述べられたカテゴリーの構図の漸次的仕上げが、哲学の固有の目標とみなされる必要がある。相互に矛盾的で競合する構図があり、それぞれがそれ自身の功罪を伴っているということもある。その場合には、もろもろの相違点を調整することが、研究の目的となる。

 ホワイトヘッドが『過程と実在』を著した段階では、その形而上学体系における究極的なもののカテゴリーは「創造性」と「多」と「一」であり、これら三者がもろもろのより特殊なカテゴリーすべての前提となっている。とりわけ「創造性」は、『科学と近代世界』で語られた「実体的活動力」あるいは「普遍的活動力」が純化され洗練されたもので、いわば有機体の哲学における究極的原理とみなされるものである。

ところで、哲学の方法に関するホワイトヘッドの考え方を踏襲することによって、ここでさらに、有機体の哲学の究極的原理として、「創造性」とは別に、「場所」の概念を導入する必要がある。この「場所」は、「創造性」と等根源的な究極的原理とみなされるので、現実界から派生する「延長連続体」とは別ものである。むしろそれは、延長連続体だけでなく、永遠の可能界をも受容する「場所」である。このような究極的原理としての「場所」は、『過程と実在』では示されておらず、『観念の冒険』にいたってようやくその萌芽が語られたにすぎない。

 究極的原理としての「場所」概念の萌芽は、人間の人格的同一性(personal identity)を保証する場所(locus)として登場する。すなわちホワイトヘッドによると、人間経験の説明において、有機体の哲学は人間の人格を経験の諸契機間の発生的関係に矮小化してきた。だが、それにもかかわらず、人格的同一性の前提となっている人格的統一(personal unity)は、避けることのできない事実である。ホワイトヘッドはこの人格的統一を説明するにあたって、プラトンの『ティマイオス』篇の一節ほど適切なものはないと考える。

すなわち、人格的統一という概念は、われわれの経験の諸契機(occasions)がそこにおいて生成する受容者(receptacle)である。つまり人格的同一性は、人間存在のあらゆる契機を受容するものであり、そこに入ってくる事物によって変えられ、さまざまな姿をとる。それはあらゆる仕方の経験を受容してそれ自身の統一へともたらすのであるから、それ自身は無形相で不可視である。それは持続する場所であり、経験のすべての契機に対して位置づけ(emplacement)を提供する。 

プラトンの「受容者」あるいは「場所」の唯一の機能は、自然のもろもろの出来事に統一を課すことであったが、ホワイトヘッドによると、それは、それぞれの人間生命の統一性に関する説ともなる。なぜなら、諸契機からなるわれわれの生命の連糸(life-thread)に浸透している自己同一性についてのわれわれの意識は、自然のもつ全体的統一内における特殊な統一のより糸についての知識にほかならないからである。それは、全体内におけるあるひとつの場所であり、それ自身の諸特性によって画されてはいるが、その他の点では、全体の構成を導く一般的原理を示している。この一般的原理とは、経験の客−主構造(the object-to-subject structure)である。したがって、ホワイトヘッドが人格的同一性を保証するものとして導入した「場所」は、人間だけでなく、すべての存続物に適用される。つまり、現実に存在するものはすべて、それらが何らかの統一性をもって存在している以上、それぞれに固有の場所を占めていると言わなければならない。

もっとも、ホワイトヘッドは、単一の現実存在(actual entity)や現実契機(actual occasion) の存立のために「場所」あるいは「受容者」を要請したのではない。彼自身はあくまで、諸契機のあるグループが共通の「受容者」に所属するという機能をもつ場合、そのグループを「ネクサス」と呼ぶように、複数の諸契機の統一のために、その統一がそこでおこなわれる場所を必要としたにすぎない。つまりホワイトヘッドが導入した「場所」は、ネクサス、社会、存続物等の諸契機のグループに認められるにすぎない。

ところで、ネクサスであれ社会であれ、それらを構成している現実存在はすべて、神によってそのつど物理的に抱握される。神の結果的本性(consequent nature)とは、派生的な現実存在の神による物理的抱握(physical prehension)である。つまり結果的本性は、神がもろもろの現実存在の多様な自由と決断をみずからの現実化の調和へと受容することにより、自分自身の経験を成就することを意味している。したがって、神の結果的本性は、個体的な自己実現を伴った要素の多数性からなっている。それは統一性であると同じく多数性であり、みずからを越え出るたゆみなき前進であると同じくひとつの直接的事実である。すなわち神の結果的本性という完成された現実態において、「多」は、個体的同一性にせよ統一の完結性にせよ失われるという制約なしに、永続的に「一」である。現実の宇宙は、すべての派生的な現実存在の集合体として成り立っているので、神は結果的本性においてそのつど全宇宙を総合統一していることになる。それゆえ神がこの総合統一をおこなうために必要とする場所は、全宇宙的な「場所」である。

 ホワイトヘッド自身、自然の全体的な統一ということを述べているので、その統一がおこなわれる「場所」として、全宇宙的な「場所」を想定していたとみなせるかもしれない。しかし、その文脈から見て、ホワイトヘッドの言う自然とは、もっとも巨大な社会を意味しており、したがってその「場所」に部分的に位置を占めるものも、小型の社会やネクサスだということになる。これに対して、神というものは社会ではなく、ひとつの現実存在であるから、神が全宇宙を総合統一するために依拠する「場所」は、ネクサスや社会の基底にみとめられる「場所」ではなく、さらにその奥底にある、神というひとつの現実存在の基底にある「場所」である。そしてこのような結果的本性としての神の基底にある「場所」において見られるものは、ネクサスや社会や存続物ではなく、個々の現実存在であり、個々の経験の契機である。

 しかし、「場所」が「創造性」と等根源的な究極的原理とみなされるためには、その「場所」は時間的で派生的な現実存在が総合統一される「場所」に限定されてはならない。というのは、神は結果的本性として有限数の時間的現実存在を総合統一するのに先立って、原初的本性(primordial nature)において無限の永遠的客体(eternal objects)を総合統一しているからである。永遠的客体とは、現実存在の合生(concrescence)過程を導く主体的目的における要素として機能するものである。個々の永遠的客体は、時間的な現実存在への進入に先立って、相互に関係づけられた体系をなしているとみなされる。神の原初的本性とは、永遠的客体の完全な多数性の無条件的な概念的評価である。この神の評価によって、永遠の次元において、無効な純粋可能の多様性が、有効な可能的関係の統一性へともたらされる。有機体の哲学では、多が一になることによって新たな現実存在が成立すると考えられているが、この多が一になるという事態は、唯一の例外を除いて、すべて時間的な過程を意味しており、この過程こそが現実性であるとみなされる。そして唯一の例外として、非時間的に多が一にもたらされるのが、神の原初的本性である。

ホワイトヘッドにとって、多を一にもたらす働きそのものは創造性であって、神ではない。彼にとって、神とは、創造性によって最初にもたらされた現実存在でなければならない。だが、最初の現実存在としての神が抱握する与件は、純粋な可能性としての永遠的客体だけである。言いかえれば、神の原初的本性とは、与件のうちにすべての永遠的客体を含む概念的諸感得(conceptual feelings)の統一性の合生である。このような純粋可能の直視(envisagement)という神の原初的本性が非時間的・超時間的であり、永遠の次元に位置づけられるのは、それが個々の時間的現実存在が生じる以前の話(論理的に)だからである。したがって、時間的な現実界を超えた永遠の次元において、混沌状態にあったあらゆる永遠的客体がそこにおいて総合統一される「場所」というものが考えられねばならない。この「場所」は、結果的本性としての神の基底にある「場所」よりもさらにその奥底にみとめられる「場所」である。前者の「場所」におけるものは個々の現実存在であるが、後者の「場所」におけるものは段階組織をなしている個々の永遠的客体である。神の結果的本性とは派生的な現実存在の神による物理的抱握であるから、それらが総合統一される「場所」は、時間的な世界が始まってから現在にいたるまで、そのつどの有限数の現実存在が位置を占める限定された「場所」である。他方、永遠的客体は純粋な可能性ではあるが無限に存在している。それゆえ、あらゆる永遠的客体を概念的に抱握する神の原初的本性は無限であり、さらにそれらが総合統一される「場所」も、無限に開かれた「場所」である。これらの「場所」は並列してあるのではなく、入れ子のように重なり合っており、重層的な構造をなしていると考えられる。

 有機体の哲学が、「創造性」と等根源的な究極的原理として導入しなければならない「場所」は、永遠の可能界を受け容れる「場所」である。それは、有限な現実界の基底にある有限な「場所」とは次元を異にし、現実の宇宙が始まる前から、つまり永遠の次元で、無限の広がりをもっている「場所」である。このような「場所」が「創造性」と等根源的であるのは、「創造性」の最初の満足(satisfaction)によってもたらされる概念的現実態としての神の原初的本性が、あらかじめ、そこにおいてすべての永遠的客体を総合統一する「場所」を前提としているからである。ホワイトヘッドにとっては、神と創造性とは別ものであり、永遠的客体を創造したのは神ではなく、創造性である。だが、創造性によって創造された永遠的客体は、当初は有効な可能性にはなっておらず、無効な混沌状態におかれていた。この混沌状態を、永遠の次元で、神が直視することによって、つまり概念的に実現することによって、有効な可能的関係の体系が成立する。したがって、もしこの実現を度外視すれば、非存在(nonentity)と区別できない単なる孤立があるにすぎない。

もっとも、以上の経緯は、ホワイトヘッドの見解を修正して、「創造性」を現実態となる以前の神の姿としてとらえるとき、いささか異なった相貌を呈することになる。つまりホワイトヘッドの場合には、永遠的客体をつくったのは神ではないので、神が混沌状態を直視するということは、神が自己ならざる他者を直視するということを意味する。ところが、もし「創造性」が現実態となる以前の神だとすると、その混沌状態は現実態となる以前の神自身の有り様であるから、神が混沌状態を直視するということは、神が神自身を直視するということを意味する。いずれにせよ、「場所」は創造性でも神でもなく、創造性が最初の意味ある存在(entity)としての神をもたらす「場所」、あるいは創造性としての神が自己自身を直視する「場所」として、創造性と等根源的な究極性をもっているのである。

 

2 絶対無の場所

 

 有機体の哲学が導入すべき「場所」は、後期の西田哲学を特徴づけている「場所」と類似している。西田は『働くものから見るものへ』の後編に収められた「場所」の論文によって、それまでの意識の極限にある絶対自由意志の立場から、一転して、あらゆる意識を自己の内に包容し、それを自己自身の影として自己の内に映す「場所」の立場に立つことになった。西田はこの論文の冒頭で、

 

  対象と対象とが互に相関係し、一体系を成して、自己自身を維持すると云ふには、かゝる体系自身を維持するものが考へられねばならぬと共に、かゝる体系をその中に成立せしめ、かゝる体系がそれに於てあると云ふべきものが考へられねばならぬ。  

 

と述べ、そのようなイデアを受け取るものともいうべきものを、プラトンの『ティマイオス』の語にならって「場所」と名づける。だが、西田によると、プラトンの「受容者」と彼の「場所」とは同じものではない。なぜなら、プラトンの哲学においては、一般的なるものが客観的実在と考えられたが、真にすべてのものを包む一般的なるものは、すべてのものを成立させる「場所」でなければならないからである。このことから「場所」というものはかえって非実在的と考えられ、無と考えられている。

このような「場所」の思想は、自己の内に自己を映す「自覚」の思想と、述語(一般)が主語(特殊)を包摂するという判断における包摂関係とが結合したものであるといえる。

西田によると、一般者は「於てある場所」として、特殊はその場所に「於てあるもの」として規定される。それゆえ、「規定せられた有の場所に於て単に働くものが見られ、対立的無の場所に於て所謂意識作用が見られ、絶対的無の場所に於て真の自由意志を見ることができる」。

 西田にとって、真の意識の立場は最後の無の立場である。なぜなら意識の根底には一般的なるものがなければならないのであり、「一般的なるものが、すべて有るものが於てある場所となる時、意識となる」からである。つまり意識の立場は、ある一つの限定された立場に対して、いっそう高次的な立場と考えられる。また、「無」とは、いかなる意味においてもこれを対象化して知識的に限定することができないということである。知識はかえってその限定によって成立するものであると考えられている。したがって、真の無とは、相対的な有と無とを包むものであり、そのような有無の成立する場所でなければならない。つまり真の無とは、有を否定し有に対立する無ではなく、有の背景を成すものでなければならない。西田によると、対立的な無の立場から真の無の立場に進むということは、単に「物の影を映す場所」から「物が於てある場所」に進むということにほかならない。というのも、すべての有を否定する対立的な無の場所においては、働くことは単に知ることとなり、知るということは映すことである。さらにこの対立を越えて真の無の場所に進むことによって、われわれは意志そのものをも見るからである。

真の無の場所、絶対無の場所とは、「一般的なるものが一般的なるものの底に、内在的なるものが内在的なるものの底に、場所が場所の底に超越することである、意識が意識自身の底に没入することである、無の無であり、否定の否定である」。そして、もし真に判断作用を超越して主語となって述語とならない基体を求めるならば、絶対無の場所がまさにそれである。それは「最後の非合理的なるものであつて、而もすべての合理的なるものは之に於てある」。このような真の無の場所における存在の世界は、純粋意志、自由なる意志の対象界と考えられる。それゆえこの世界においては、すべて有るものは妥当的実在であり、叡智的存在である。

 絶対無の場所は、一方では、すべての働きを超越して単に永遠なるものと考えられるとともに、他方では、すべての場所を含むがゆえに無限に働くものと考えられている。それは真に自由なるものであり、無限の純粋作用を自己の属性とするものである。もっともこのことは、絶対無の場所がそれ自体で無限の作用をもつということを意味しない。「すべて作用といふのは一つの場所が直に真の無の場所に於てあると見られる場合に現れる」と言われるように、真の無の場所は作用を基礎づける「作用の作用」の立場である。

真の無の場所は直観の場所でもある。この直観の場所から見たとき、働くものとはこれに「於てあるもの」の自己限定として意志作用である。そして直観的なるものの「於てある場所」、直観の述語面に「於てあるもの」を知識面から見れば、無より有を生ずる無限の作用と見られる。この意志の背後にある無は創造的無である。なぜなら、知識においては、無にして有を映すと考えられるが、意志においては、無より有を生ずるからである。西田によると、生む無は映す無よりもさらに深い無でなければならない。このように意志は真の無の場所において見られるのであるが、なおそれは無の鏡に映された作用の一面にすぎない。限定された有の場所が見られるかぎり意志が見られるが、真の無の場所においては意志そのものも否定されなければならない。作用が映されたものとなるとともに意志も映されたものとなるからである。こうして、「動くもの、働くものはすべて永遠なるものの影でなければならない」。

 

 2 非合理的なるもの

 

 後期の西田哲学の出発点をなす「場所」の論文において、西田はすでに「絶対無の場所」を「最後の非合理的なるもの」であって、すべての合理的なものがそこにおいてあるものとしてとらえている。ところで、ホワイトヘッドの有機体の哲学では、原初的本性としての神の存在が究極の非合理性(the ultimate irrationality)であると言われている。なぜなら制限の原理としての神の本性に基づいて課せられる、まさにその制限には、いかなる理由も与えられないからである。原初的本性としての神は具体者ではないが、具体的現実態の根拠である。神の本性が合理性の根拠であるゆえに、神の本性に対してはいかなる理由も与えられないのである。

 もっとも、ホワイトヘッドが神を「制限の原理」、「具体化の原理」としてとらえ、「究極の非合理性」であると述べたのは、『科学と近代世界』においてである。その数年後に著された『過程と実在』においては、そのような合理性の根拠にしてみずからは究極の非合理性である神もまた、さらに究極的な「創造性」によってもたらされた原初的で非時間的な偶然(accident)であると言われている。先に述べたように、ホワイトヘッドの形而上学体系において前提となっている究極的なもののカテゴリーは、「創造性」と「多」と「一」である。とりわけ「創造性」は究極的事態を性格づける普遍的なものの普遍的なもの(the universal of universals)であり、一般者の一般者である。したがって、神が究極の非合理性であるとすれば、神より究極的な創造性はさらに究極の非合理性であり、最後の非合理性である。また、有機体の哲学が導入すべき「場所」は、創造性と等根源的な究極性をもっていなければならないので、創造性が最後の非合理性であるのにともなって、「場所」も最後の非合理性とならなければならない。

 「場所」が最後の非合理性であり、永遠なるものであるということに関しては、有機体の哲学と西田哲学とは軌を一にしている。だが、「創造性」という純粋な働き、作用の位置づけについては、両者は意見を異にしている。有機体の哲学では、「創造性」と「場所」は等根源的な究極的原理なので、一方から他方を導き出すことはできない。これに対して、西田哲学では、「絶対無の場所」がより究極的であり、無限の純粋作用はその属性とみなされる。つまり西田哲学では、何であれ作用というものは、一つの場所がじかに絶対無の場所においてあると見られる場合に現れるものである。

 

3 神と個物

 

 後期の西田哲学においては、「場所(一般者)の自己限定」の思想に加えて、あらたに「個物の自己限定」の思想が鮮明にされていったと言われている。西田にとって、真の個物とは人格的自己のことであり、それはまた絶対無の自覚的限定面と考えられている。「我々は創造的世界の創造的要素として行為的直観的に世界を形成し行く」と言われるように、人格的自己は創造的世界の創造的要素として位置づけられている。このような人格的自己は、いかなる意味でも実体的なものではない。それは一瞬一瞬に自己を限定するものを含む「動く個物」である。この個物は場所の内に包まれると同時に、自己の内に場所を包む。そのさい、一方が他方を包むのは直接的にではない。場所は自己否定的に個物を包み、個物は自己否定的に場所を包む。こうして個物の自己限定は場所の自己限定であり、絶対現在の自己限定である。個物が真の個物であり、人格的自己であるとき、それが「於てある場所」は、相対的な有や無の場所ではなく、絶対無の場所である。絶対無はただ自己を否定することによって自己を表現するものであり、そのような絶対無の自己否定態が真の個物である。それゆえ絶対無は真の個物を自己の内に包むと同時に、その個物に自己を対置することができる。

 西田哲学における個物と絶対無の関係は、有機体の哲学における個々の時間的現実存在と神との関係に近い。個別的な現実存在は、神を含む他のすべての現実存在(これが当の現実存在にとっての環境であり、それがそこにおいてある場所である)を抱握することによってみずからの存立を保つ。しかしまた逆に、神は結果的本性においてすべての時間的現実存在をそのつど抱握している。しかも神もひとつの現実存在であるから、神は時間的現実存在をみずからの内に包むと同時に、その時間的現実存在にみずからを対置することができる。

また、ホワイトヘッドの神は原初的本性において、他のすべての創造的働きと生成の一致においてある概念的作用の前提された現実態である。このような原初的本性に由来する神の主体的目的の完全性は、神の結果的本性の性格に帰趨する。この結果的本性において、世界は直接性の一致のうちに感得される。この意味で、「神は始めであり、終りである」。こうして個々の時間的現実存在は、神を介して、世界の始めと終りにつながっている。

同様のことが西田哲学でも言われている。西田によると、「我々の自己は、絶対現在の自己限定として、逆対応的に何時も絶対的一者に触れて居るのである。我々の自己は一歩一歩終末論的に世界の始と終に繋がつて居るのである」。絶対的一者とは絶対無のことであり、それはまた神でもあるから、西田においても、個々の人格的自己は神に触れることによって、つねに世界の始めと終りにつながっているのである。

 このように神と個物との関係を考えるとき、西田哲学と有機体の哲学は多くの類似点をもっているが、しかし何を神とみなすかに関して、両者は明らかに異なっている。西田哲学では、「神は絶対の自己否定として、逆対応的に自己自身に対し、自己自身の中に絶対的自己否定を含むものなるが故に、自己自身によつて有るものであるのであり、絶対の無なるが故に絶対の有である」と言われるように、神は絶対無(の場所)である。この神が不断に自己を否定するということが、神が創造的であるということの意味である。ところが有機体の哲学では、神とはつねに最初にして最後の現実存在である。かりにホワイトヘッドの見解を修正して、「創造性」を現実態となる以前の神とみなしても、「創造性」と等根源的な究極性である「場所」はいかにしても神とはみなされない。むしろ有機体の哲学にとっての「場所」は、創造性という純粋な働きとしての非人格神が、現実存在という人格神となるさいに受け容れた「場所」であるといえよう。

 

 4 プロセス哲学から西田哲学への問い

 

 西田哲学が広く共通の理解を得るためには、いくつかの概念に関して、他の立場への翻訳、通訳といった作業が必要になるであろう。以下、二、三の例を挙げる。

(1)       個(物)について

 個とは、世界における創造的要素であり、人格的自己であると言われている。もし人格的自己を人格的主体と置き換えることが許されるなら、人間はもちろん個であるが、人間以外の存在者はどうであろうか。たとえば、山や山に生えている木は、端的に個と呼べるのか。もし個であるとするなら、山や木も人格的主体だということになる。

 環境と共生することで建築に生命を吹き込む、という建築思想の持ち主である安藤忠雄氏が、第一回の西田哲学会で講演されたように、植林によって禿山が緑豊かな森に変わるということがある。この場合、山や木は、人間の創造活動に参画しているので、創造的要素であるといえる。プロセス哲学ではさらに、山や木は現実存在の社会なので人格的主体であるとみなされる。 

(2) 限定について

 限定には、それによって意識の場所、有の場所が現れる垂直方向への限定と、全体が部分に分かれるという水平方向への限定が考えられるが、個の多数性ということは水平方向への限定によって導入されるのではないか。

 つまり個は一般者の自覚的限定面だと言われている。「絶対無の場所」は一般者の一般者であるから、多である個は、一つの全体的な場所である「絶対無の場所」が多くの仕方で限定された個別的な場所でもあると考えられる。

(3) 具体者としての個および場所について

前記の西田哲学会のシンポジウムで、田中裕氏が「場所の詩学」という題目で発表された。そこで問いたいのは、句会で俳句が詠まれるとき、個に当たるのは、俳句を詠んだ者か、詠まれた俳句か、あるいは詠むものと詠まれたものがそこにおいてある句会か、あるいはすべて個とみなされるのか。もし句会が個であるとすれば、それはまさしく個別的な場所である。また、詠む者と詠まれる俳句は、句会という創造活動が行われている場所に参画しているので、いずれも創造的要素ではある。

プロセス哲学では、詠む者は現実存在の社会であり、もちろん人格的主体だが、詠まれた俳句はネクサスか命題にすぎないので、人格的主体ではない。句会は、複数の人間を含む社会の社会であり、人格的主体である。したがって、個は、創造的要素ではあるが、必ずしもすべて人格的主体であるとは限らない。