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ホワイトヘッド略歴

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド (Alfred North Whitehead) 1861年2月15日生まれ、1947年12月30日没


西暦 時期 概 要 参 考
1861年
(0歳)









2月15日、イギリスのケント州サネット島ラムズゲイトに生まれる。
祖父トマス・ホワイトヘッドは21歳でラムズゲイトの私立学校の校長となった名士、父アルフレッド・ホワイトヘッドも25歳でその職を受け継ぎ、いずれも名校長と謳われた。父アルフレッドは30代の前半には英国国教会の牧師となり、教職から聖職に転じた後、地方監督、カンタベリ大聖堂名誉参事、監督区主教会議代表などの公職を歴任した有力者で、テイト大主教とも親交が厚かった。
4月12日、アメリカ南北戦争開戦(~1865年)
5月6日ラビンドラナート・タゴール誕生(~1941年)
1860年代 古い歴史の余韻を残すイースト・ケントの美しい光景の中で幼年時代を過ごす。
父アルフレッドは優れた教育者で、有力者や知識人との交流も頻繁であった。「自伝的覚え書」によれば、父の知己としばしば会うことは、アルフレッド・ノースに強い感銘と感化を与えたという。イースト・ケントの古い史跡の多い穏やかな風景も、少年アルフレッド・ノースの人格形成に深く影響した。
 Ramsgate Beach
1864年
(3歳)
両親や家族とともにスイスからの帰途、秋のパリを訪れる。当時アルフレッドは3歳だったが、チュイルリー宮殿の庭園を通る道でナポレオン三世配下の兵士たちの一連隊が行進して行く光景が記憶に鮮やかに残っていたという。
1870年
(9歳)
5月19日、西田幾多郎誕生(~1945年。戸籍上は明治3年4月19日出生となっているが、この当時の和暦は太陰暦。実際の出生はこれより前とも言われる)
7月19日、普仏戦争勃発(~1871年5月10日)
1871年
(10歳)
10歳でラテン語を学びはじめる。
1872年
(11歳)
5月18日、バートランド・A.W.ラッセル誕生(~1970年。ラッセルの父アンバーレー子爵はJ.S.ミルの門弟でもあり、ミルはバートランドの名付け親となった)
1873年
(12歳)
12歳でギリシア語を学びはじめる。
19歳半になるまで休日以外毎日、ギリシア、ラテンの著作について数ページずつ解釈・文法を学び続ける。
5月8日、J.S.ミル没(1806年~)
J.S.ミル『ミル自伝』
1874年
(13歳)
1875年
(14歳)





















南イングランド中部のドーセット州の名門シャーボーン校(675年創立)に入学、寄宿生活がはじまる。 トルストイ『アンナ・カレーニナ』(~1877年)
1870年代後半のイングランドの家庭生活と学校生活を回顧してホワイトヘッドはこう書いている。「トルストイは『アンナ・カレーニナ』の冒頭にこう書いた。『幸福な家庭はどれも同じだ。不幸な家庭はそれぞれに特有の事情がある。』・・・国民生活の一局面を語る場合、次の二つの点を明らかにしなければならない。(a)その国はなぜそれほどよいのか、(b)その国はなぜそれほど悪いのか。件の国がわれわれの祖国であれば、長短合わせてわれわれが愛する国は複雑な事実の集合なのだ。」(ESP.29)
1870年代後半 アルフレッド大王も学んだという伝説のあるシャーボーン校は、古い修道院の建物が校舎で、卒業前の2年間、ホワイトヘッドは元院長室と信じられていた部屋を書斎としていた。「学校はドーセットシャーの人口6000人の小さな町シャーボーンにあった。当時300人の男子生徒がいた。16世紀の王エドワード6世による学校の改造にちなみ、私たちは地元で『王の学生たち(キングズ・スカラーズ)と呼ばれていた。」(ESP.30)
同校では古典語・古典研究に重点が置かれ、数学も熱心に学んだ。後に「ヒッバート・ジャーナル」紙に掲載され『教育の目的』に再録された論考「教育における古典の位置」のなかで、ホワイトヘッドは、現代社会における古典教育の重要性を訴え、『思考の有機化』に収録され『教育の目的』に再録された論考「技術教育とその科学および文学に対する関係」において、純粋な科学・文学に没頭する喜びと応用的な学問教育の重要性の両方を主張し、いずれの論考でも当時の閉鎖的な学問教育の改革を訴えている。
古典と数学に打ち込むあい間には課外活動にもいそしみ、 卒業年度(1879-1880)には、生徒の課外活動に責任をもつ「学生総代」、クリケットとフットボールを主とする「競技の主将(ゲーム・キャプテン)」を務めた。「競技については、私たちは現代の英国の高校生や米国のどの大学生よりもはるかに自主性に富んでいた。私たちには、世界中でイングランド西部のみが与えうる、親しみ深い風景に囲まれた美しい競技場があった。私たちは自分たちで競技を管理し、練習も自分たちでした。……50年前シャーボーンでは、『競技の主将』を務める生徒の招待なしに、競技に興じたり口出ししたりする教師はひとりもいなかった。……恐らく、この監督抜きの自由のおかげで、私たちは教師たちと最良の関係にあった。」(「あるイギリス人の教育」)
この時期に重要なのは、こうした学生生活のなかで、詩、特にワーズワースとシェリーに親しみ、歴史に強い関心を持って読書していたことである。詩と歴史の愛好は生涯変わらなかった。
1880年
(19歳)










夏、スイスからの帰途、パリを再訪。普仏戦争後の廃墟となったチュイルリー宮殿を訪れ、3歳のときの記憶を確かめる。
秋、ケンブリッジ大学トリニテイ・コレッジに特待生として入学。
のちに同コレッジでフェロー(研究員)、講師となったため、30年間をケンブリッジで過ごす。
1880年代前半 トリニティ・コレッジの学部生時代には、数学に集中した。
「トリニティの学部生時代の全期間を通じて、私の聴いた講義は純粋数学と応用数学だけだった。」(「自伝的覚え書」より)
数学以外のあらゆる学問と芸術は、夕食時から深夜まで続く、学生・教員を含むコレッジの構成員との尽きせぬ対話(「プラトンの対話の日常版」)によって補われた。
同コレッジでも、熱心に課外活動に取り組んだ。
1882年
(21歳)
4月19日、Ch.ダーウィン没(~1809年)
1883年
(22歳)
6月5日、J.M.ケインズ誕生(~1945年)
1884年
(23歳)
















































10月9日、トリニティ・コレッジのフェロー(teaching fellow)に選ばれる(日付はローの『ホワイトヘッド:人と作品』による。ホワイトヘッドの「自伝的覚え書」では、フェローになったのは1885年とされている)。ティーチング・フェローとして応用数学と力学の講義を担当する。最初の応募でフェローに選ばれたことにホワイトヘッド自身が驚く。
1885年
(24歳)
秋、トリニティ・コレッジでB.A.(学士号)を取得。 ブラームス第四交響曲作品98初演
ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』
1887年
(26歳)
トリニティ・コレッジでM.A.(修士号)を取得。研究分野は応用数学と理論物理学(力学)。
1888年
(27歳)
5月、トリニティ・コレッジの講師(Assistant Lecturer)に任命され、同コレッジの6人の数学講師陣のひとりとして午前の第一時限目の講義を開講する。秋からは、ケンブリッジの2マイル北にあるギルトン女子大学の講師となる。
応用数学の論文2篇を『純粋数学および応用数学雑誌』第23号に発表。「粘性非圧縮流体の運動―近似値」「粘性流体運動への第二近似」
H.ベルクソン『意識に直接与えられたものについての試論』を学位論文としてソルボンヌ大学に提出
2月15日、九鬼周造誕生(~1941年)
9月26日、T.S.エリオット誕生(~1965年)
1889年
(28歳)
1月、ニーチェ、トリノのカルロ・アルベルト広場にて昏倒。
4月20日、A.ヒトラー誕生(~1945年)
4月26日、L.ウィトゲンシュタイン誕生(~1951年)
9月26日、M.ハイデッガー誕生(~1976年)
1890年
(29歳)
B.ラッセルがトリニティ・コレッジに入学。ホワイトヘッドの推薦で二種奨学金を受ける特待生となる。
12月、イーヴリン・ウィロビー・ウェイドと結婚。生涯の伴侶となる。ケンブリッジの町の中心部にあるローズ・クレセントのアパートメントに住み、やがてもっと静かなベイトマン街24の家に移る。
「彼女の生気に満ちた生活は、道徳的・美的な意味での美が存在の目的であること、優しさ、愛、芸術的充足がこれを達成する様式であることを私に教えてくれた。」(「自伝的覚え書」より)「我が妻へ 彼女の励ましと助言があるからこそ 我が生涯の仕事は可能であった」(『相対性の原理』献辞より)
W.ジェイムズ『心理学原理』
1891年
(30歳)
12月31日、長男トーマス・ノース誕生。家庭では「その男の子はいつも『ノース』と呼ばれていた。彼自身、「T.North Whitehead」と署名していた。」(ロー『ホワイトヘッド:人と作品』)ノースはのちに、経営学教授となり、ハーバードなどで教える。
1892年
(31歳)
次男、誕生直後に死亡。名前も付けられなかった。 G.E.ムーア、ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジ入学。
1893年
(32歳)
長女ジェシー誕生。 F.H.ブラッドレー『現象と実在』
1895年
(34歳)
ラッセルがホワイトヘッドの推薦でトリニティ・コレッジのフェローとなる。 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』(英文)
J.デューイ『倫理研究』
1896年
(35歳)
H.ベルクソン『物質と記憶』
8月27日、宮沢賢治誕生(~1933年。戸籍上は8月1日出生となっている)
1897年
(36歳)
W.ジェイムズ『信ずる意志』
6月5日、Ch.ハーツホーン誕生(~2000年10月9日)
1898年
(37歳)
最初の単行本『普遍代数論』(A Treatise on Universal Algebra)をケンブリッジ大学出版局から刊行
11月27日、三男エリック・アルフレッド誕生。次男は生まれてすぐに亡くなり、ホワイトヘッドは「自伝的覚え書」その他でエリック・アルフレッドを次男と紹介している。
ホワイトヘッド一家は、この年から約8年間、ケンブリッジ郊外のグランチェスターの「オールド・ミル・ハウス」(旧水車小屋)に住む(写真)。周囲は、チョーサー、バイロン、ワーズワースにゆかりの美しい田園で、ケンブリッジゆかりの学者や文人も多く集い、ホワイトヘッド夫妻も近隣のシャクバーグ夫妻、遺伝学者ウィリアム・ベイトソン夫妻と親交を結んだ(人類学者グレゴリー・ベイトソンは1904年5月9日、ウィリアム・ベイトソンの三男として、この地に生まれている)。「我が家の窓からは水車用の貯水池が見下ろされ、当時まだ水車が動いていた。今は何もかも姿を消してしまった。」(「自伝的覚え書」より)1901・02年には、『数学の諸原理』執筆中のバートランド・ラッセルと当時の妻アリスも滞在した。「水車小屋は魅力的で、絵さながらであったが、たったひとつ欠点があった。ネズミである。人々は種々の仕方で抵抗を受けたけれども、時折、兵力を整え、古代住居の壁の内側で<恐ろしい戦い>を挑んだのだった」(『ホワイトヘッドの対話』1938年4月28日)
この頃から、妻イーヴリンは心臓病の発作に悩まされ、また夫の「アルティ」が仕事に集中するあまり発狂するのではないかと恐れる。
この頃、およそ8年間、相当な量の神学書を読む。「これはすべて課外研究だったが、相当な神学書庫ができるほど、その研究は徹底的だった。この8年が過ぎると、彼はこの[神学という]課題を放棄し、書籍を売り払ってしまった。ケンブリッジのある本屋は、このコレクションに対して、喜んで破格の値段をつけた。どうやらこのときの支払いは、その店の本で支払われることになったらしい。そこで彼は狂喜して本を買いあさり、ついには精算額を超過してしまった。」(『ホワイトヘッドとの対話』序)ホワイトヘッドの浪費癖と実際的な金銭感覚の欠如については、ラッセルも報告している。

(松籟社から刊行されている著作集第15巻484頁に、旧水車小屋のより鮮明な写真が掲載されている)
1899年
(38歳)
J.ロイス、翌年にかけてスコットランドのアバディーン大学でギッフォード講義『世界と個物』。1900年出版。
J.デューイ『学校と社会』
1900年
(39歳)
ラッセル夫妻(バートランドとアリス)とともに、パリで開催された第一回国際哲学会議に出席、ペアノらに会う。 H.ベルクソンがコレージュ・ド・フランス教授に就任(1914年に休講、1921年に正式に辞職)
ラッセル『ライプニッツ哲学の批判的解明
W.ジェイムズ、1902年にかけてスコットランドのエディンバラ大学でギッフォード講義『宗教経験の諸相』。1902年出版。
1901年
(40歳)
1月22日、英国ヴィクトリア女王崩御。
4月19日、岡潔誕生(~1978年)
1902年
(41歳)
4月11日、小林秀雄誕生(~1983年)
7月28日、K.R.ポパー誕生(~1994年)
1903年
(42歳)
先に刊行された『普遍代数論』の続巻の計画を断念。一方、ラッセルは『数学の諸原理』の続巻の計画を断念。ホワイトヘッドとラッセルは、それぞれの続編が同じ計画であったことから、共同研究をすることに決める。
普遍代数論に関する功績により、王立協会(Royal Society)の会員に選出される。
2月22日、F.P.ラムゼイ誕生(~1930年)
5月9日、P.ゴーギャン没(1948年~)
12月8日、H.スペンサー没(1820年~)
ラッセル『数学の諸原理』出版(草稿完成は前年5月)
1904年
(43歳)
W.ジェイムズ『純粋経験の世界』
1905年
(44歳)
トリニティ・コレッジでD.Sc.(博士号)を取得。 A.アインシュタイン「特殊相対性理論」および「光量子仮説」「ブラウン運動理論」
M.ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』
夏目漱石『吾輩は猫である』が「ホトトギス」に連載開始
1906年
(45歳)
『射影幾何学の公理』(The Axioms of Projective Geometry)を「数学および数学的物理学叢書」第四巻Tracts in Mathematics and Mathematical Physics No.4としてケンブリッジ大学出版局から刊行。 4月28日、クルト・ゲーデル誕生(~1978年)
1907年
(46歳)
論文「物質的世界の数学的概念」(On Mathematical Concepts of the Material World)をロンドン王立協会紀要に発表。
『画法幾何学の公理』(The Axioms of Descriptive Geometry)を「数学および数学的物理学叢書」第五巻としてケンブリッジ大学出版局から刊行。
H.ベルクソン『創造的進化』
W.ジェイムズ『プラグマティズム』
1910年
(49歳)
ラッセルとの共著『数学原理』(Principia Mathematica)第一巻をケンブリッジ大学出版局より刊行(第二巻は1912年、第三巻は1913年、ホワイトヘッドが主に担当するはずだった第四巻は断念された)
4月の終わりに25年間在職したトリニティ・コレッジの主任講師の職(Senior Lectureship)を辞し、夏には家族とともにロンドンに移る。ロンドンではまだ職を見つけていなかったため、10-11年の学年度は無職だった。「ケンブリッジ大学の非科学的封建制に愛想を尽かした」とも、友人のA.フォーサイスの講師辞職をめぐるトリニティの態度に腹をたてたためとも言われている。チェルシーに住居を見つける。
柳田国男『遠野物語』
8月26日、W.ジェイムズ没(1842年~)
1911年
(50歳)




















前年夏からの学年度は無職のまま過ぎたが、その間に、以前から数学教育のために準備してきたスケッチをもとに『数学入門』(An Introduction to Mathemathics)を執筆、Home University Library of Modern Knowledge第15巻としてウィリアムズ・アンド・ノルゲイト社から出版
7月、ロンドン大学ユニヴァーシティ・コレッジに職を得て、同コレッジ理学部の応用数学と力学の講師となる。
大英百科事典の「数学」の項目を執筆(『科学・哲学論集』第4部第3章に収録)。
西田幾多郎『善の研究』
W.ジェイムズ『哲学の諸問題』
E..フッサール「厳密な学としての哲学」
1912年
(51歳)
ユニヴァーシティ・コレッジで幾何学の主任(助教授に相当)となる。 W.ジェイムズ『根本的経験論』
ウィトゲンシュタイン、ケンブリッジ大学トリニティ・コレッジ入学
1913年
(52歳)
E..フッサール編集『哲学および現象学研究年報』創刊、創刊号にフッサール『純粋現象学と現象学的哲学のための構想』第一巻(いわゆる『イデーン1』)掲載
M.プルースト『失われた時を求めて』第一部自費出版
和辻哲郎『ニイチェ研究』
1914年
(53歳)
ロンドン大学インペリアル・コレッジ・オブ・サイエンス・アンド・テクノロジー(理工学部)の応用数学の教授となる。 4月14日、C. S. パース没(1839年~)
7月28日、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告(第一次世界大戦勃発)
1915年
(54歳)
「空間、時間、相対性」(Space, Time and Relativity)をアリストテレス協会(英国哲学会)紀要に発表。ロンドンに移ってからのホワイトヘッドの関心と研究主題を示す論文(『思考の有機化』および『教育の目的』に収録)。 アインシュタイン「一般相対性理論」
1916年
(55歳)
イギリス数学者協会会長に任命される。就任演説は「教育の目的」(『思考の有機化』および『教育の目的』に収録)。 2月19日、E.マッハ没(1838年2月18日~)
ラッセルが良心的反戦論者として100ポンドの罰金を受け、トリニティ・コレッジを追われる。
9月14日、J.ロイス没(1855年11月10日~)
S.アレキサンダー、1918年にかけてスコットランドのグラスゴー大学でギッフォード講義『空間、時間、神性』。1920年出版。
1917年
(56歳)
『思考の有機化』(The Organisation of Thoughts: Education and Scientific)をWilliams and Norgate社から刊行(この本に所収の講演録、論文は、のちに『教育の目的』『科学・哲学論集』に(部分的な省略を加えられて)収録される)。
1918年
(57歳)
3月13日、王室航空隊員だった次男エリック・アルフレッド、フランスのゴバンの森上空で撃墜され戦死。翌年刊行された『自然認識の諸原理』はエリック・アルフレッドに捧げられている。 11月11日、休戦協定
1919年
(58歳)
ロンドン大学評議会委員になる。
『自然認識の諸原理』(An Enquiry Concerning the Principles of Natural Knowledge)をケンブリッジ大学出版局より刊行
ターナー講義。この講義は翌1920年に『自然という概念』として出版。
6月28日、ドイツがベルサイユ条約に調印(第一次世界大戦終結)
1920年
(59歳)
マンチェスター大学より名誉博士号を授与される。
『自然という概念』(The Concept of Nature)をケンブリッジ大学出版局から刊行
1921年
(60歳)
インペリアル・コレッジ学部長となる。 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』をオストワルトの主催する『物理学年報』に発表。
1922年
(61歳)
『相対性原理』(The Principle of Relativity: With Applications to Physical Science)をケンブリッジ大学出版局より刊行
アリストテレス協会(英国哲学会)会長に任命される。同協会紀要第23巻1922-23年号の巻頭に「斉一性と偶然性」を掲載。
1924年
(63歳)






























ロンドン大学を定年退官。
米国のハーバード大学に哲学教授として招聘される。
「ハーバード大学への招聘は、1924年、完全な不意打ちのかたちでやってきた。戸外も室内も陰鬱なある日の午後、夫人が一通の手紙を彼に手渡した。ふたりとも暖炉のそばに座っていて、彼は手紙を読み、読み終わるとそれを夫人に渡した。彼女がそれを読んで、『どうなさいますの』と尋ねると、驚いたことに、彼は、『何をさしおいても、行きたいと思うよ』と答えたのである。」(『ホワイトヘッドの対話』)
これは幾分か誇張のある描写かもしれない。正式な招聘状が届く前の1月13日付の手紙で、ニュー・ヨークの友人バールに宛てて、ホワイトヘッドはすでにハーバードに招聘されたら引き受けようと思っている旨を書いている(『ホワイトヘッド:人と作品』)。
招聘状は2月6日の日付で、当時のハーバードの総長ローウェルからだったが、ホワイトヘッド招聘計画はローレンス・ヘンダーソンによって進められ、招聘資金はヘンリー・オズボーン・テイラー一家によって拠出された。招聘状に示された条件は、5年間の任期で、年に8000ドルの給料だった(給料は27年には9000ドルに、30年には12000ドルに上げられた)。5年の任期という計画はすぐに延長され、ホワイトヘッドが望むかぎりこの職に就けるという条件に変更された。
ホワイトヘッド夫妻は8月15日にロンドンを出発して、16日にリヴァプール港からボストンに出航するデヴォニアン号に乗船した。8月26日にデヴォニアン号はボストン港に到着。上陸前に嵐が襲い、翌日まで船の中で足止めとなる。突然の嵐(ハリケーンと思われる)は「まるでワーグナーの『さまよえるオランダ人』の中の主人公が登場する嵐の場面のようだった」(長男ノース宛の手紙、『ホワイトヘッド:人と作品』より)。ホワイトヘッド夫妻は住居が整うまでのあいだ、マサチューセッツ州ケンブリッジのチャールズ川沿いのメモリアル・ドライブにあるラドナー・ホール504のアパートメントに入った。アパートは友人でオクスフォードの心理学者W.マクドゥガルが貸してくれたものだった。渡米には、長年ロンドンの家で家政婦を務めたメアリー嬢も一緒だった。長女ジェシーはロンドンに留まって、一年後に両親と合流した。夫妻は、渡米後も、終生イングランド国籍を保持した。
9月23日からハーバード大学哲学科で講義が始まった。ハーバードでは週3日の哲学講義以外の公職からは解放された研究生活が約束されていた。彼は数学と物理学の専門教育を受けたが、哲学の講義に出席するのはハーバード大学で彼自身が行う講義が初めてだったと冗談まじりに回顧している。
「講義は週3回、学生に各20分の討論時間を与える代わりに、彼は午後の時間をすべて、あるいは夕方の時間をすべて学生のために開放した。・・・・・・こうした集まりは、授業のためである以上に、個人的な交わりのためのものであった。1920年代のなかばにはじまり、1930年代に至る少なくとも13年間、主として学生のためではあるが、誰でも参加できる週1回の『ホワイトヘッド家の夕べ』はよく知られるようになった。」(『ホワイトヘッドの対話』)
同年秋、通常の講義に加えて、ローウェル講義の講師の依頼を受ける。
4月、宮沢賢治『心象スケッチ 春と修羅』自費出版、12月『注文の多い料理店』自費出版
6月3日、F.カフカ没(1883年6月3日~)
8月3日、J.コンラッド没(1857年12月3日~)
9月18日、F.H.ブラッドレー没(1846年1月30日~)
1925年
(64歳)
2月、ローウェル講義終了。
講義の内容は、同年に『科学と近代世界』の9つの章に収められる。講義は週1回ずつ全8回行われ、各回が『科学と近代世界』の1章ずつに当たるという「白熱」(『ホワイトヘッドの対話』)のペースだった。
『科学と近代世界』(Science and the Modern World)を米国マクミラン社より刊行。ローウェル講義を活字化したものだが、第2章はブラウン大学数学会の講演、第12章はハーバードのフィリップス・ブルック館での講演をもとに『アトランティック・マンスリー』1925年8月号に掲載、第10章、第11章もローウェル講義後に執筆されたもの。


2月9日、J.B.カブJr.、日本の神戸でメソジスト宣教師の両親のもとに生まれる。両親は戦争を挟んで1965年まで日本で宣教を続ける。1940年に米国ジョージア州に移るまで、主に広島と神戸で過ごす。
1926年
(65歳)
2月、ボストンのキングズチャペルで宗教に関する4回の連続講演。この講演はそのまま『形成途上の宗教』として同年に刊行される。
『科学と近代世界』を英国ケンブリッジ大学出版局からも刊行。
『科学と近代世界』の書評をS.アレグザンダー(Nature誌)、R.B.ブレイスウェイト(Mind誌)、J.デューイ(New Republic誌)、B.ラッセル(Nation and Athenaeum誌)などの哲学者や、生物学者・組織論者でハーバード招集の黒幕ヘンダーソン(Quart. Rev. of Biology誌)、詩人・文芸批評家のハーバート・リード(New Criterion誌)、ギルトン女子大出身の(しかしホワイトヘッドの講師時代にはまだ子どもだった)分析哲学者L.S.ステッビング(Jour. of Philos. Studies誌)らが書く。
『形成途上の宗教』(Religion in the Making)をマクミラン社より刊行
Mind誌35号に「編集者への注記」(1925年11月25日の日付)を発表。『数学原理』(Principia Mathematica)第2版の校訂はすべてラッセルによってなされたことを明言する。
1927年
(66歳)
『形成途上の宗教』の書評をケンブリッジ時代からの友人でギリシア古典研究者、歴史学者のA.E.テイラーがDublin Rev.誌に、E.R.テナントがMind誌に書く。
『象徴作用』(Symbolism: Its Meaning and Effect)をマクミラン社より刊行
『象徴作用』の書評をCh.ハーツホーンがHound and Horn誌に書く。
アメリカ経営学部協会で講演(講演の内容は論文「大学とその機能」として『教育の目的』に収録)。
翌1928年にかけて、スコットランドのエディンバラ大学でギッフォード講義。講義の内容は、1929年に『過程と実在』にまとめられる。
1928年
(67歳)
『象徴作用』の書評を後にプロセス神学者となるP.ヴァイスがNation誌(NY)に、J.ラトナーがNew Republic誌に、L.J.ラッセルがJour. of Philos.Studies誌に書く。
R.ダス『ホワイトヘッドの哲学』がラッセル・アンド・ラッセル社から刊行される(Das, Rasvihary. The Philosophy of Whitehead, 1928, Reprint. New York: Russell & Russell, 1938)
D.H.ローレンス『チャタレイ夫人の恋人』(『形成途上の宗教』の末尾の4つの文章が引用されている)
J.デューイ、翌年にかけてスコットランドのエディンバラ大学でギッフォード講義『確実性の探求』。
1929年
(68歳)
『象徴作用』の書評をA.E.マーフィーがJour. of Philos.誌に書く。
『過程と実在』(Process and Reality)をマクミラン社より刊行
『理性の機能』(Function of Reason)をプリンストン大学出版局より刊行
『教育の目的』(The Aims of Education and Other Essays)をマクミラン社より刊行
『過程と実在』の書評をM.ベルギオンがCriterion誌に書く。
『教育の目的』の書評をH.A.L.フィッシャーがNation and Athenaeum誌に、Ch.ガウスがNew Republic誌に書く。
1930年
(69歳)
『過程と実在』の書評を科学哲学者E.ネーゲルがSymposium誌に、哲学者でのちにホワイトヘッドのアンソロジー(Alfred North Whitehead: An Anthology. Selected by F. S. C. Northrop and Mason W. Gross. The Macmillan Co., New York, 1953)を編集するF.S.C.ノースロップがSaturday Rev. of Literature誌に、L.S.ステッビングがMind誌に書く。
『理性の機能』の書評をR.I.アーロンがMind誌に書く。
1月19日、F.P.ラムゼイ没(1903年~)
1931年
(70歳)
英国アカデミー(British Academy)の会員に選出される。
『過程と実在』の書評をM.H.ムーアがPhilos. Rev.誌に書く。
W.B.ドナム『移りゆくビジネス』(Wallace Brett Donham, Business Adrift, New York: Whittlesey House, 1931)に序言「予見(Foresight)」を書く。後に加筆されて『観念の冒険』に第6章として収められる。
K.ゲーデル「不完全性定理」
1932年
(71歳)
L.プライス、ホワイトヘッド家をはじめて訪問する。
その後プライスは頻繁にホワイトヘッド家の夕べに招かれ、この交際からプライス著『ホワイトヘッドの対話』(1954)が生まれた。
D.エメット『ホワイトヘッドの有機体の哲学』がマクミラン社より刊行される(Emmet, Dorothy Mary. Whitehead's Philosophy of Organism, 1932, 2nd edition, London: Macmillan, 1966)。
『科学と近代世界』第5章の邦訳『反動としての浪漫思潮/エイ・エヌ・ホワイトヘッド著』柏倉俊三訳が、『文学論パンフレット、第11巻』(斎藤勇編)として研究社から刊行される。
H.ベルクソン『宗教と道徳の二源泉』
J.ヴァール『具体的なものへ』(「ホワイトヘッドの思弁哲学」を収録)
1933年
(72歳)
『観念の冒険』(Adventures of Ideas)をマクミラン社より刊行
シカゴ大学で招待講義。この講義は翌年『自然と生命』に収められる。
『観念の冒険』の書評をJ.デューイがNew Republic誌に、J.ハクスレーがSpectator誌に、歴史学者C.L.ベッカーがAmerican Historical Rev.に、分析哲学とプラグマティズムを結びつけた哲学者M.R.コーエンがYale Rev.誌に書く。
ナチス党、ドイツの総選挙で大勝、1月30日、A.ヒトラー、ドイツ首相に就任
9月21日、宮沢賢治没(1896年~)
11月18日、L.S.フォード誕生
1934年
(73歳)
『自然と生命』(Nature and Life)をシカゴ大学出版局より刊行。これは後に『思考の諸様態』第3部に全編が再録される。
W.v.O.クワインの『論理のシステム』(A System of Logistics. Harvard University press, Oxford University Press)に「序言」を寄せる。
『観念の冒険』の書評をD.エメットがHibbert Jour.誌に書く。
H.ベルクソン『思想と動くもの』(1922年に付された「序論(第二部)」で、「数学から哲学に入った深遠な一思想家」としてホワイトヘッドに共感的な言及を行う)
1937年
(76歳)
ハーバード大学を退職する。最終講義は鶴見俊輔らも聴講。
1938年
(77歳)




『思考の諸様態』(Modes of Thought)をマクミラン社より刊行
1939年
(78歳)
邦訳『自然と生命』柘植秀臣、永野為武訳、三省堂より刊行。 9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻(第二次世界大戦勃発)
8月、D.R.グリフィン誕生
1941年
(80歳)
シルプ編『現在の哲学者叢書(The Library of Living Philosophers)』の第3巻として『ホワイトヘッドの哲学』(The Philosophy of Alfred North Whitehead)がノースウェスタン大学出版局より刊行される(ホワイトヘッド自身が「自伝的覚え書」「数学と善」「不死性」の3編を寄稿。これらの論文は後に『科学・哲学論集』に収められる)。 1月4日、H.ベルクソン没(1859年~)。
12月8日、日本海軍の真珠湾攻撃(太平洋戦争勃発)
1943年
(82歳)
K.ポパー『開かれた社会とその敵』第二部を完成(出版は第一・二部とも1945年)。
1945年
(84歳)
オーダー・オブ・メリット勲章を授与される。 西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」
R.G.コリングウッド『自然の観念』(第三部でホワイトヘッドの宇宙論が取り上げられる)
4月30日、A.ヒトラー自殺
5月8日、ドイツ無条件降伏
6月7日、西田幾多郎没(1970年~)
8月15日、日本がポツダム宣言受託
9月2日、日本が降伏文書に調印(第二次世界大戦終結)
10月24日、国際連合発足
1946年
(85歳)
邦訳『数学入門』河野伊三郎(新潟高等学校教授)訳、文求堂書店より刊行(同翻訳は、翌年、白林社より再刊行された)
A.H.ジョンソン編の抜粋集「ホワイトヘッドの機知と知恵」がPhilosophy of Science誌に掲載される(翌年加筆訂正されてビーコン・プレス社から出版される)。
1947年
(86歳)
『科学・哲学論集』(Essays in Science and Philosophy)を刊行。同論集第一部第五章「良識への訴え」(An Appeal to Sanity, 1939)に注が付されているが、恐らくこの注が活字になったものとしてはホワイトヘッド最後の言葉である。
A.H.ジョンソン編の抜粋集『ホワイトヘッドの機知と知恵』(The Wit and Wisdom of Whitehead)がビーコン・プレス社から出版される。「『ホワイトヘッドの機知と知恵』!」とホワイトヘッド夫人は言った。「何という題名なんでしょう! あなたには機知があることは認めるし、知恵もいくらかあることは認めますけど、それでも・・・」(『ホワイトヘッドの対話』「1947年11月11日」)
12月30日、米国マサチューセッツのケンブリッジで永眠。

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